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見沼たんぼの見所紹介

〜緑のヘルシーロード〜

  川口市立グリーンセンター 見沼通船掘東縁

見沼代用水の右岸、左岸を走っている緑のヘルシーロードは、行田市の利根大堰を起点として、川里村、騎西町、菖蒲町、白岡町、蓮田市、上尾市、さいたま市を通り、川口市のグリーンセンター付近まで、総延長56.5Kmを結んでいます。

緑のヘルシーロードは、1978年〜1988年の見沼代用水路の改修(総工費約608億円)に伴ない生じた余剰地などを活用して造られたものです。この工事により、見沼代用水路のほとんどは三面護岸され、かつての面影はなくなってしまいました。今では、代用水原形保全区間にその面影をしのぶことができます。

緑のヘルシーロードは、サイクリング専用に作られた訳ではありませんが、サイクリングをするには、とてもいい道です。もちろん、散歩にも最適です。

今回から、この緑のヘルシーロードを終点から北上して、その周辺の見所を紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 
 緑のヘルシーロードの終点から、見沼代用水東縁沿いに上流に向かいます。住宅街を抜け、外環自動車道をくぐり、『木曽呂の森』の斜面林を経て、約4.3Km。山口橋(もとは木曽呂橋)があります。

ここから北が、見沼田圃となります。そして、山口橋を通っている県道が、昔の赤山街道です。

また、この川口市の木曽呂からさいたま市の附島までの約870mが、八丁堤となります。

赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(1629)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道で、街道の起点は与野市あたりと考えられています。さいたま市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていました。伊奈氏は、寛永六年にこの八丁堤を築き見沼溜井造成に着手したそうです。

 

 

 

 

 

 


山口橋からヘルシーロード沿いの上流上手の竹藪の中に小さな祠があり、これが山口弁天(厳島(いつくしま)神社)です。この厳島神社には、『見沼の弁天様』という昔話があります。

さらにそのちょっと上流に、木曽呂の富士塚があります。見沼通船堀と見沼代用水東縁との交わったところ、ちょうど、その向かい側です。雑木林に囲まれているので、ちょっと見にくいんですが…

この木曽呂にある富士塚は小さな丘のように見えますが、富士山の代わりを果たすために築かれた山なのです。高さ5.4メートル、直径20メートルで、頂上まで登ることができます。

この富士塚は江戸時代の富士山信仰に由来するもので、他所の富士塚よりずっと古いものだといわれています。

 

 

 

 

   

 

 山口橋から北に向かって見沼代用水東縁の左側(ヘルシーロードとは反対側の岸)を上流に向かうと、見沼通船掘東縁があります。ここには、見沼通船掘の模型の他、休憩所、トイレもあります。

見沼通船堀は、享保16年(1731)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古とされる閘門式運河です。通船堀は代用水路縁辺の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちで八丁堤の北側につくられたものです。東縁路が約390m、西縁路が約654mありますが、代用水路と芝川との間に水位差が約3mもあったため、それぞれ関を設け、水位を調節して船を上下させました。関と関の間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特長となっており、技術的にも高く評価されています。

通船堀を通って、年貢米の他野菜、薪炭、酒、魚類、醤油、荒物などが江戸に運ばれました。
   通船を行うのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが後に冬場の2ヶ月程と短くなりました。通船は明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達によってすたれ、大正時代の終わり頃には行われなくなり、昭和6年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。

 

 

 

 

 

 

 
 ※文章は、一部、見沼代用水沿いの掲示板から引用しています。  

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