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 見沼代用水路を下る! その参:柴山伏越(しばやまふせこし) 

  [柴山伏越] 八間堰を通り越した用水は、さらに水路を下り、3kmほど過ぎると、白岡町と蓮田市境界で元荒川に行く手を阻まれてしまいます。見沼田圃まで用水を流すには、この元荒川を越えて向こう岸へ水を送らなければなりません。大量の水を一気に、どのようにして対岸へ送ったらよいのでしょう?
そこでここに設けられたのが「用水と河川の立体交差」「用水のトンネル」、柴山の伏越です。
伏越は、元荒川の川底のさらに下、平地から5.4mの地下にトンネルを掘って木で樋を造り、その中に用水を通して、元荒川の下をサイホン式にくぐらせています。すぐれた土木技術に驚かされますネ。
設置当初の伏越は、長さ約47m、内幅約4.2m、高さ約1.2m。江戸時代に初めて造られた当時の木造の伏越は、およそ10年おきに修繕が行われていました。その後、明治20年に煉瓦造りに、昭和3年にはコンクリート造となり、昭和53年〜平成7年の埼玉合口二期事業により現在の形に造り替えられました。

[井沢弥惣兵衛為永の墓]  見沼代用水路開削者で
「近世土木の祖」とも言われる井沢弥惣兵衛為永は、紀州溝口村(和歌山県海南市)にうまれ、初めは紀州徳川家(紀伊藩)に仕えていました。その後、紀伊藩主の徳川吉宗が八代将軍となったとき、招かれて徳川宗家(幕府)の家臣となりました。
為永が行った最大かつ代表的な事業が見沼の新田開発です。自ら測量・設計・監督をし、紀州流土木技術のすべてを駆使して、見沼の干拓、代用水路の開削、沿線の新田開発に当たりました。
元文3年(1738年)3月1日逝去、享年76歳(85歳とも)。江戸麹町(東京都千代田区)心法寺に葬られました。この墓石は、明和4年(1767年)に、見沼代用水路沿線の村民が為永の遺徳をしのび、代用水路の重要な施設である柴山伏越のほとりの常福寺に分骨して建てたものです。

 



[右手は元荒川の常福寺橋。見沼代用水は矢印の下を流                               れる。]

[見沼代用水路普請奉行 井沢弥惣兵衛為永の墓]

※ 参考文献:見沼代用水土地改良区資料
             

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