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 ペ ー ジ 名
項  目 ・ 内  容  な ど
見沼の歴史
その
 城―戦国時代のさいたま市・寿能城
           
さいたま市大和田 石川さん

見沼の歴史
その
 新田名義と特色          秋葉 一男

見沼の歴史
その3
 代用水路開削と新田開発  秋葉 一男

見沼の歴史
その2
 見沼溜井の時代      秋葉 一男

見沼の歴史
その1

 見沼溜井以前の時代(2) 秋葉 一男 

見沼の歴史
その1

 見沼溜井以前の時代(1) 秋葉 一男

 

見沼の伝説

 


 
見沼に伝わる伝説紹介】   (北辰図書株式会社発行)
      埼玉県伝説集成(上巻・自然編 韮塚一三郎編著)より抜粋
                   

見沼の伝説 
その2

 見沼の不思議な話〜
国昌寺
              「開かずの門」
見沼の伝説 
その1

 見沼の不思議な話〜
河童の妙薬
                 (さいたま市大宮)

 

  見沼の歴史 その

―戦国時代のさいたま市・寿能城  


 1500年代の話、旧大宮市近辺は上杉謙信の上杉方の支配下にあった。当時の軍事拠点は、川越城、岩槻城などであった。岩槻城は、旧江戸城築城で有名な太田道灌が築城、その子孫、太田三楽斎資正(おおた さんらくさい すけまさ)が城主となり、上杉勢と戦い、上杉方となってからは、南から進軍してくる北条氏康・氏政などの北条方に対抗していた。
 太田三楽斎資正は、軍事的天才で、上杉謙信の家老に、「主君に匹敵する」といわれ、秀吉が朱印状を送ったこともある。連絡手段に伝書犬を考え出したアイデアマンでもあった。関八州ではかなり名のある武将であった。
 1560年、北条方におちた川越城に対抗し、旧大宮地区に寿能城、伊達城(現・大和田陣屋跡)が築城された。寿能城主は資正の四男、潮田出羽守資忠(うしおだ でわのかみ すけただ・姓は母方)が、伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房実がそれぞれ治めた。寿能城の地区は、現在の大宮北中学校〜ひょうたん池手前までの範囲が寿能城であった。
 北面、南面は谷、東面は現・川口まで続いたという大きな"見沼"(今は見沼代用水、芝川がある低地)に面し、西面には堀を掘ったらしい。見沼を隔てた台地に伊達城があった。さらに南には、中丸城(南中丸)、松野城(御蔵)を建て北条方に備えた。
 1562年、北条方は、圧迫を強め、太田氏ゆかりの水判土慈眼院に焼き討ちし、氷川神社も兵火で焼けた。1564年、資正が、宇都宮に出かけている最中に、長男、氏資(うじすけ)が北条方と組み、資正を岩槻城から追放、寿能城も、北条方の支配下に入った。
 潮田氏の領地は浦和〜桶川にいたる広さであった。人物としては、氷川神社に土地を寄進したり、大宮の五穀豊穣のため城内に稲荷を祭り当地の守護神とするなど、信心深い人物だった。(現在は、市役所横に移設されている。)
 1590年、資忠は、秀吉の小田原攻めに対抗するために、一族・家来衆と北条の小田原城に入城する。しかし、石田三成の軍勢により、小田原城四ッ門蓮沼で、息子・資勝とともに潮田勢37名が討死した。
 同年、秀吉軍の家康配下の浅野氏の軍勢が北上、北条方軍勢と合戦になった。
 寿能城は当時の他の戦国の城のように、村民の避難所となり、多くの大宮村民が篭城、急ぎ戻ってきた家老、北沢宮内、加藤大学の奮戦も空しく、寿能城はあえなく、主君の死と同年に落城、二人の家老は氷川大門に蟄居にいたった。主君の妻と幼少の息子・資政は助け出され常陸に逃れたが、家来衆や、その妻子、名前が残っているのは能姫、侍女のお漣(れん)など、かなり多くの人々が、見沼に身を投げた。秀吉方の軍勢は市域で、戦場の他聞にもれず暴行・略奪行為を行なったようで、軍勢の乱暴狼藉を禁ずることと、逃げていった農民の帰還を命ずる秀吉禁制(案)が残っている。
 難攻不落の岩槻城も、4月22日落城、家老・伊達与兵衛房実は、その地で降参、退散した。房実は、家康の時代になって、召し抱えられ、伊達城の地域に陣屋を置いて大和田を治めた。同じく家老、加藤大学は、後に氷川神社に仕える家となった。他の家老、北沢宮内ら多くの武将は帰農してゆき、大宮町の成立に尽力していった。家康の時代になって、領主が寿能城付近の開発を命じられた、ということもあり、城の形は残らなくなっていった。旧大宮はこのように、戦国時代には戦場となって多くの人が亡くなっていた地であった。
 大正〜昭和初期に、笛のうまい少女が蛍を追っていった所、侍女風の少女が現われ、案内されてお屋敷に入った所、少女の姿のお姫様が現われ、その地であった悲劇を告げ、「今は見沼の竜神の力で蛍の姿を借りて生きている。優しい村人に供養をして欲しい」と訴えた、という伝承があり、青い石の供養塔が資忠公の墓石の隣りに建てられ、戦前までは、命日の4月18日に供養祭が行われていた。見沼の蛍は戦前までは数多く見られ、天皇陛下まで献上されていたらしいが、今は見られない。
 しかし、戦時中に寿能城跡に高射砲陣地が造られたときに、多くの土塁などが削られ、供養塔等も失われた。現在は住宅地内の急な坂が当時をしのぶが、残っているのは出丸跡、潮田出羽守資忠公の墓所のみである。資忠公の墓地が立つ所は物見櫓跡であったらしいが今は寿能公園となっている。 見沼用水にかかる潮田橋、そこからひょうたん池までの間が出丸跡である。大手門は北中学校のあたりにあったというが今はない。

 

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 見沼の歴史 その4

―新田名義と特色― 

 

 見沼新田は、見沼干拓によって形成された新田の総称で、ここには個別に付けられた多くの新田が 含まれています。これらは、成立の事情によって、村請(むらうけ)による持添(もちぞえ)新田と開発者の身分によって町人請、百姓請とに分けられます。 

村請の持添新田 
  見沼新田には溜井周辺の17か村が請負いした持添新田があります。持添 新田は反高(たんだか)はあるが新田村居の農民が不在の土地を指しますが、一様ではないのです。その主なものを取り上げてみましょう。反高(たんだか)はあるが新田村居の農民が不在の土地を指しますが、一様ではないのです。その主なものを取り上げてみましょう。 

 下木崎村新田 ―― 下木崎村の持添。享保16年(1731)と寛政元年(1789)と同6年に検地が実施され、300石と高請しています。 

 宮本新田 ―― 当初は三室村の持添であったのですが、後に分村。石高は313石。 

 三室村新田 ―― 三室村は山崎、宿、松木、芝原、馬場のそれぞれが組を構成し、見沼新田にもそれぞれが持添新田を有しています。山崎組新田は461石余、宿組新田は596石余、馬場組新田 は92石余、松木組新田は219石余、芝原組新田は204石余で、天保郷帳(ごうちょう)には各組合わせて、三室村新田1,689石余となっています。 

 大間木村新田 ―― 大間木村の村民の開発で、享保16年の検地で、高236石余(反別25町1余反)が打出されたのです。寛政元年には浅間下と悪水東で見取田が23石余が検地されました。ここには、八町堤の北側に堤と並行して見沼通船掘があります。 

 片柳村新田 ―― 片柳村の持添。享保16年の検地で、石高489石(田反別40町9反余、畑6町六反余、屋敷2反余、名請人86名)。 

 西山村新田 ―― 片柳村の持添。享保16年の検地で石高284石余(反別、田25町1反余、畑1町6反余、屋敷9畝余、名請12人) 

 東山村新田 ―― 山村の持添。検地年代同上、(高25町1反余)。 

 新井新田 ―― 開発前は海老沼低湿地。新井村持添。高226石余(反別、田39町3反余)。 

町人・百姓請新田  個人の名請による町人請や百姓請は次の通りです。 

 加田屋新田 ―― 江戸町人加田屋助右衛門が新墾し、入江新田を号し、享保の開発に出願し、再び当所を開き、己の屋号をもって新田名とした。高614石余。助右衛門は見沼代用水の関枠見廻役に任ぜられ、役給田3反歩を賜う。 

 上山口・下山口新田 ―― 江戸小田原町鯉屋藤右衛門が開発し、己の姓を採り新田名としたのです。上山口新田は高163石余(反別、田15町5反余、畑5町7反余、屋敷3反余、名請人10人)。寛政元年に高46石余(反別、田8町9反余)同6年に高48石(反別7町6反余)が高入され、天保郷帳で258石余。下山口新田は享保16年、安永4年(1775)、寛政元年、同6年に検地を実施。天保郷帳には168石余とあります。家数は22軒、人数93人です。当地の四本竹遺跡は、氷川女体神社の御旅所と伝える祭場遺跡です。 

 新右衛門新田 ―― 享保年中(17161736)大宮宿本陣内倉新右衛門が開発し、己の名を村名とし、享保16年、寛政元年、同6年に検地が実施され、高31石余(反別、田4町5反余、畑8反余、屋敷は5軒)です。 

 蓮見新田 ―― 大牧村の紀州鷹場鳥見役蓮見万之助が開墾、ついで、その子亭次郎が開発した新田で、己の姓を村名としています。天保郷帳には高66石とあります。 

 以上、見沼新田における個別新田の成立事情による名義をみてきたが、見沼新田では、享保16年、寛政元年、同6年の3回の開発による検地があったことに気付かれたかと存じます。 

見付田(みつけた)・沼田  
 見沼新田の開発計画は、当初1,228町余であったが、開発後の検地では、
 1,178町余で、実質150町歩は残り水内1,178町余で、実質150町歩は残り水内(みうち)として処理しなければならなかったのです。その後、見沼中悪水路、新芝川の浚渫(しゅんせつ)や水路拡幅によって排水機能も高められ、泥深い土地も開発可能になって、寛政元年(1789)には代官萩原弥五兵衛による検地が執行されたのです。耕地悪条件の中での開発 には、位付(くらいつけ)は見付田とされています。  

 さらに、寛政3年には、幕府御普請役による見沼中悪水路、新芝川川幅の切広げや床下げにより、窪地の(たんすい)が除去されることとなったのです。同6年、代官菅沼嘉平、同山口鉄五郎らによって検地が実施されました。しかし、地位は見付田より低い沼田が大部分でした。  

 

  品等 

 上田 

 上ノ下田 

中田 

中ノ下田 

 下田 

 下ノ下田 

 見付田 

 沼田 

 斗代(石盛) 

 13 

 12 

 11 

   1石 

  9斗 

   8斗 

 76 

  5斗 

 石盛りは、租税賦課のために検地によって耕地屋敷地の反当りの収穫量のことです。見付田、沼田は上田の半分以下で極く低いのです。 

植田(うえだ)と摘田(つみだ)
 
 浦和市南部領辻には、小名(古い地名)に五斗蒔下(ごとまきした)という田圃があります。五斗蒔というのは、中世に行われた田畑の高表示法の一つで、町反歩や貫高で示すかわりに、その田畑にまく蒔く種籾(たねもみ)の量によって何合蒔き、何升蒔き、何斗蒔きと称していました。1反の播蒔量は、約5〜6升といわれていますから、5〜6町位と考えられます。台地の地名は五斗蒔で畑や屋敷地になって おり、田圃が五斗蒔下とまことに穿っています。また、開発の古さが感じられます。  
 ところで見沼新田と大宮台地の比高差は5〜7mもあり、見沼代用水の豊かな水量の他に台地からのしぼり水も加わって、前述したように、窪地では湛水が除去されにくく、水損に見舞われることも少なくなったのです。
  

 見沼田圃は、一見広々として、同一条件のように見えますが、植田と摘田が共存する場所なのです。田植のできな泥深い深田では、代掻(しろかき)きした田(掻田ーかいだにウネヒキ(畝引)棒で、縦横十文字に掘りたてて、その交点に種を播くのです。
 
 見沼新田では、八十八夜が通水開始ですから、一斉に苗代の準備や田摘みにかかります。田摘みは、朝の風の立たないうちに、肥料(木灰と下肥)とまぶした籾種を摘むのです。
 
 
  田の水入れは、田越(たご)しといって水路から取り入れる養水は、順次、田から田へと水を入れていきます。やがて、秋にたわわに稔った稲の刈上げになると、摘田では「田下駄」と「田舟」が利用されるばかりでなく、田に埋め込まれた木の上を歩かなければならないため作業は困難でした。

  稲干しは、検地帳に記載されているように「稲干場」「のろし」架けして乾燥させます。中には田圃 矢来(やらい)を立ててのろし架けすることも少なくありません。 

 このように摘田は植田に比して大変苦労したのですが、田の地位は低く、見付田か沼田と検地帳には格付けられています。 

  
 見沼の入り江の台地端は島畑
(しまばたけ)といい、大変肥沃な土地です。台地からのしぼり水は溝を掘って見沼田圃に落とし、里芋、百合根、牛蒡、長芋、八つ頭、人参、生姜などの野菜をつくっています。中には、水廻りがよいといって陸稲を作る家もありました。
  
 住まいは、台地上にあって、山林に囲まれ、母屋、蔵、物置、木小屋、そして長屋門と四方を囲んだ庭は、作業場兼籾干し場です。北側は居山といって屋敷林です。南側は雑事畑といって日常生活の惣菜を作ります。
 

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  見沼の歴史 その3

―代用水路の開削と新田開発― 

 

   見沼溜井を水源とする溜井周辺や下流域の村々は、開発が進むにつれ水不足に悩まされました。また、上流域では排水不良に苦しむ村も出現し、溜井の功罪は相半ばといえます。
 さらに、溜井の一部を干拓して造成した入江新田については、水不足に悩む村々と訴詔となり、取り潰しとなりました。こうした状況の中で、これらの村々は、幕府にたびたび嘆願をして溜井廃止を迫ったのですが、取り上げられませんでした。
 
 たまたま、享保年間、日光門跡輪王寺宮4代公寛が膝子村
(旧大宮市)光徳寺に立ち寄った折に、農民が溜井の取り潰しを門跡に嘆願し、これが将軍吉宗の耳に入ったと伝えています。いずれにせよ早くから将軍吉宗は見沼干拓の必要性を認識していたものと考えます。 

 将軍吉宗の紀州流の採用
 
将軍吉宗は、就任以来、特に財政建て直しに努力し、新田開発を奨励し、年貢増徴による収入拡大を図ってきました。しかし、これまでの伊奈氏が手がけた、いわゆる関東流の手法は、ほとんど行き詰まっており、当時残された県内の開発可能地は、小規模な未開発地か、大規模な沼沢地ぐらいであったのです。
 そこで、溜井方式に変わる方法として、用排水分離方式を採用することとしたのです。これは、従来灌漑用として造成された溜井の池沼の水を放流して干拓し、その代わりの用水を大河川から取水して、用水路を新削して導入しようとするものです。
 
 そこで、吉宗は、かつて紀伊藩主時代に優れた土木技術の才能を示していた井沢弥惣兵衛為永を、享保7年
(1722)9月に召し出し、「在方御普請御用」に任じ、勘定所出仕を命じたのです。為永は、以来、幕臣として普請工事に携わることになりました。その工法は、伊奈氏の関東流に対応して紀州流と呼ばれています。 

 開発計画の発表  
 
享保10年(1725)9月、幕府は紀州藩士から幕臣に取り立てられた勘定吟味役井沢為永に見沼干拓の検分を命じました。為永は、早速下見に現地を視察したのです。
 これに驚いた下流の村々では、直ちに開発反対の陳情をしました。これには、「利根川の用水受益の末端村々までの距離が20里(約80km)もあり、用水が行き渡らないのではないか。また、降水量の少ない時には、用水が不足するのではないか。そして、溜井の水は養分が豊富であるが、利根川の水は山水であり、荒水であるから稲の生育には芳しくなく、干拓は反対である。」と不安を述べ反対したのです。 
 しかし、勘定奉行筧播磨守正鋪は、幕府は既に見沼の開発計画を決定しているとして、激しく叱責したのです。一方、為永は、農民の不安を解消するために、溜井に代わる用水路を開削する計画を明らかにして、農民たちの説納につとめました。
 

 流域調査と測量開始  
 
享保11年(1726)8月、御普請役保田太左衛門らが派遣され、続いて為永以下8名が現地入りして、沼内の測量や水路候補地選定を開始しました。沼内は勿論だが、大小の水脈、多くの沼沢地の未墾地の分布状態なども詳しく調査しました。そして、利根川・荒川の治水も考慮しながら、埼玉郡、足立郡にわたって、延々20里に及ぶ用水幹線を築き、これを分流することにより、両郡内の諸沼も干拓し、新田を開発するという大計画が立案されたのです。 
 水源となる利根川は、集水域が広大で、常に豊かな水が保たれ、用水確保の不可能になる恐れはなかったのです。用水の取り入れ口には行田下中条の地が選ばれました。ここは従来から洪水の破堤はなく、常に、水深が一定し、一時的に川瀬に変化が現れても、旧に復するという好条件を備えていたのです。このことは、240年後に建設された利根大堰が同じ場所であることからも証明されています。
 

 見沼代用水路の開削 
 
水路工事の測量は、享保11年に着手され、翌12年から水路の開設が開始されたのです。利根川沿岸の行田市下中条から延々60kmに及ぶ水路は、13年春に完成しました。取入口には、巨大な木造樋管が築造され、星川筋を利用して用水を導びき、元荒川と交差する白岡町柴山では、その川底を通す伏越をつくり、さらに綾瀬川との交差点である上尾市瓦葺には、その上を掛渡井で通し、その下流で、東縁、西縁の両用水路に分流し、見沼に導水したのです。
これらの工事にはほとんど狂いが見られず、しかも、わずか6か月という短期間で完成させたことは、技術水準の高さにはおどろかされます。
 
 これと同時に見沼溜井の中央に芝川排水路が開削され、溜井の放流が行われました。
 

 見沼新田の開発 
 見沼干拓による新田開発は、見沼周辺の17か村の村請と江戸町人越後屋、野上屋、猿島屋の請負のほか入江新田を造成した加田屋坂東家も加わって進められました。新田開発は、享保13年春までに完了させ、3年の鍬下年季後の同16年に検地が実施されました。 
 見沼干拓の総面積は、1,228町余歩で、このうち道路、水路敷などを差し引かれた1,172町歩余が水田と化したのです。なお、越後屋、野上屋、猿島屋の町人請の分は間もなく従前見沼で鯉漁していた山口屋藤左衛門に売り渡されたので、藤左衛門の開発した土地は、その屋号から山口新田と呼ばれたのです。
 

 
見沼代用水の灌漑面積は1万5000町歩 
 見沼代用水路は、享保13年2月に完成し、同3月元圦(もといり)が開けられ用水が導入されたのです。新設用水路は、約5万間 (約90km)、築堤土揚用地178町歩(1.77平方km)余。うち3分の2は不毛地や崖腹で、旧来の田畑の潰地は65町歩でした。
 建設の総労働力は、延べ90万人、工作物等の費用は2万両という巨額でありました。
しかし、見沼新田だけでも1,172町歩余が良田と化し、年々4,960石余が年貢米として上納され、水田が乏しかった溜井沿岸の村は、30町歩から200町歩の新田を請地することができました。
 
 その後、見沼代用水路周辺の埼玉沼
(行田市)、屈巣沼(川里村)、小林沼と栢間沼(菖蒲町)、柴山沼と皿沼(白岡町)、河原井沼(久喜市・菖蒲町)、笠原沼(宮代町)、鴻沼(旧浦和市・旧与野市)、鶴巻沼と丸ヶ崎沼(旧大宮市)等の諸沼も同時に干拓され、分水路も新削されて、新たに600町余の新田が出現し、灌漑面積は、1万5000町歩を超える大灌漑用水が完成したのです。 

 見沼通船堀と見沼舟運 
 幕府は、見沼代用水路開削後、水路の有効活用を考え、代用水路縁辺の村々から芝川、荒川を通って、江戸の河岸まで年貢米、その他の物資を運ぶ通船計画を立て、井沢為永に芝川(見沼中悪路)と代用水路との間に通船堀を構築させたのです。
 通船堀は、用水路と芝川が最も近い八丁堤
(旧浦和市大間木)に設置されました。
両河川の水面の高低差は3mもあるので2ヶ所の閘門を設けて、上下3段の水面調節によって、船の上下や通行を考案設計されたのです。
 この閘門式運河は、日本最古のもので、スエズ運河に先立つこと138年、パナマ運河より183年も早い建造であったのです。
 

 

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  見沼の歴史その2  

  ―見沼溜井の時代

  代官頭伊奈備前守忠次の次男半十郎忠治は7000石を領して関東郡代になると、赤山に陣屋を築いて付近一帯の開発を進めています。 

見沼溜井の造成

 寛永6年(1629)忠治は、荒川下流の新田開発のために、現在の元荒川 筋を流れていた荒川本流を久下(くげ 熊谷市)付近で締切り、和田吉野川筋から入間川筋に流下させています。これと同時に、見沼溜井の造成にも取りかかりました。見沼を囲む両岸の台地が、最も狭まる大間木(旧浦和市)の附島と木曽呂(川口市)の間に人工の堤を築くことにしました。その間の距離が8町(約870m)ほどあったので、八町堤と呼ばれ、今までも残っています。 
 この堤の築造で、荒川下流域への灌漑用水池となって、新田開発が急速に進められていったのです。これが見沼溜井なのです。溜井には、上郷や溜井周辺の湧水や余排水が貯留されて、下郷の谷古田、平柳、舎人、渕江、浦和、戸田、笹目、安行の8ヶ領221か村の約5
,000町歩(5,000ha)の水田に灌漑されたのです。 

見沼の水没田  
 
見沼に溜井の水が貯留されていくにしたがい、見沼周辺の村々では、水没田がたくさんできてきました。これを、「水いかり」と呼んでいます。特に見沼中央部にあたる旧大宮市域では、被害が大きく、329石余も水いかりの影響をうけています。高鼻村や大和田村では、村高の3分の1が失われてしまったのです。
 水いかりは、八丁堤締切り当初から起こりはじめたようです。片柳
(旧大宮市)の万年寺の記録によると、天正19年(1591)に朱印高20石を拝領しましたが、そのうち5石は慶長19年(1614)に染谷村に替地となり、ついで寛永6年(1629)には、水いかり分として、11石8斗2升が高畑村(さいたま市)に代替されています。また、当時の「万年寺略詩吟」には、次第に溜井の水量が増してくると、万年寺付近の農家2,3軒とともに元禄の初めの頃に万年寺も村の北西の地に移転しなければならなくなったと詠み込んでいます。 
 大宮の氷川大明神社領についても、承応3年(1654)の水いかり改めの覚えには、水没田74石分のうち、新開村(旧浦和市)ほか2村に51石余、別所村(旧浦和市)ほか1村に22石余の代替地を賜っています。 

溜井周辺の景観  
 
溜井の面積は約9平方km、周囲の距離約40kmの規模を持って、常に沿岸諸村から湧水や排水が流れ込み、潤沢な水をたたえた沼水は、これを用水として利用している水下の8か領諸村の水田に潅水したのです。湖は、名称三沼のとおり、3水面に大別されるので、湾曲の出入りも多く、渺渺たる湖面の林藪に覆われた大宮台地との景観は変化に富み、四季の眺望はまさに山紫水明の佳境であったといわれています。 
 浦和、大宮、上尾一帯は、紀伊徳川家の御鷹場で、大宮鷹場と呼ばれていました。初代頼宣公 は、溜井沿岸の鷹場に出狩して、富士を眺めて、つぎのように詠んでいます。
   《 誰も見よ 箕沼
(みぬま)の池に影うつる 富士の高嶺に雪の曙 》 
また、尾間木(旧浦和市)の清泰寺の御詠歌には、 
   《 照る月に さざ波清く平らかに うろくずまでも 浮ぶ湖 》 とあります。
 
「うろくず」は魚類のことで、湖中には魚類が多く繁殖し、漁猟の利も多く、万治2年
(1659)、奉行所は、漁猟者に1か年8両の運上金を課するとともに、毎年、三室氷川女体神社に鯉70本、鮒100枚を神饌するように申し渡しています(『見沼代用水沿革史』)。 

見沼の龍神祭  
 
このように、不断の溜井は、穏やかで平安でしたが、ひとたび台風や豪雨 が激しく襲えば、沼は忽(たちま)ち氾濫して、周辺の民家や田野に大きな被害をもたらしたのです。万年寺では、元禄の水災難破船が出たので、龍神燈をかざして船の安全を図ったといいます。 
 また、『岩槻巷談』には、正徳4年
(1714)7月10日、岩槻慈恩寺に観音様のお開帳がありました。これに参詣しようと、木崎村(旧浦和市)より船に乗り、湖を渡っていた折に、にわかに突風が吹き荒れて、船を漕ぐ棹艪
(さおろ)にも力が入らず、大浪に打呑まれて、船は忽ち転覆し、乗船者30余名はことごとく見沼の藻屑(もくず)となってしまったのです。それから近隣諸村の村人は、毎年、6月15日に木崎村から1里ほど隔たった沼中で最も深く、湖面が藍色に見える底なしの場所で龍神祭を行ったといいます。 
 蒸した赤飯を飯台に入れて、沼に沈めて犠牲者の霊を慰めると、水が渦巻いて飯台を巻き込み、しばらくすると、金鱗の鯉が光を放って浮かび上がり箸を返すといわれています。
 真偽の程はいずれにせよ、見沼干拓されるまでの間は龍神祭は続けられたと伝えています。 
 

坂東家の入江新田開発  
 
見沼溜井造成によって、見沼の3個の大鹿の角のうち、特に水底の浅い東角(つの)の部分は、旧大宮市の堀崎、大谷地区までが水面となっていたのです。これを干拓して新田を造成しようとしたのが、坂東助右衛門尚重であります。  
 坂東助右衛門は、紀州名草郡加田の出身で、正保元年(1644)に江戸北新堀に住み、屋号を加田 屋と称して町人となったのです。延宝3年(1675)幕府の許可を得て、見沼の東角(つの)の根元の片柳(旧大宮市)から野田(旧浦和市)に通ずる締切堤を築いて、沼水を堰き止め、膝子(旧大宮市)から沼水を落として干拓し、これを「入江新田」と称し、52町6反歩の新田が造成されました。 
 この田地は、元禄8年
(1695)上州厩橋城主酒井河内守の検地を受けています。  
 
坂東家は沼の隣地に居を構えていましたが、その跡地は、さいたま市立の「くらしっく館」となり、当時の面影をとどめています。 
 入江新田の干拓によって溜井の水量は減少し、用水源としての機能が低下したのです。このため、享保元年
(1716)水下の八か領諸村から新田取潰しの訴訟が起され、同3年には沼に復元されたのです。その後、同13年、坂東家は再び新田開発を出願し、新めて、同家の屋号を冠した加田屋新田が再開発されたのです。 

元禄14年新川 用水開削計画案  
 
見沼溜井を利用する八か領の用水不足は、村下諸村の新田開発の進行に従い深刻になったのです。見沼溜井は縁辺の湧水や台地の排水を水源としているので、集水面積が狭く、貯水量には限界がありました。そこで、他の河川に水源を求める案が水下の農民からも出ています。元禄14年(1701)水下八か領の農民は、関東郡代伊奈半左衛門に水不足解消案として、元荒川を五丁台村(桶川市)で堰き止めて貯留し、それを見沼溜井に導くというものでした。

 一方、岩槻等の引水は、星川を利用し、騎西領堰を取払い、星川一筋にして、利根川から水を引き入れるという案でした。これは、後の見沼代用水路と同じ利根川からの導水でしたが、既に延宝元年(1673)忍領、岩槻領で検討し、絵図面まで作成し、忍、岩槻両藩役人も協議しています。また、名主の案内で、水盛りまで行っています。しかし、伊奈半左衛門は、今羽村(旧大宮市)、菅谷村(旧上尾市)等、五丁台溜井から見沼溜井までの諸村では水害の危険があることや、五丁台溜井に十分な貯水量が確保できるかと疑問があって反対したので、廃案としています。このようにして、利根川からの取水は延期されたのです。 

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  見沼の歴史その1

 −見沼溜井以前の時代(2)


  見沼の古代から中世にかけては、口碑伝説に語られたものも少なくありません。古記録や諸書によって見沼にまつわる事柄をとりあげてみましょう。
 

見沼わきの黒塚の鬼女伝説     
 旧大宮市堀の内の大黒院のあたり高台は、全くの住宅街になってしまいましたが、昔は見沼を挟んで寿能城蹟と対峙して、鬱蒼とした森林の奥山でりました。ここは黒塚と呼ばれ、謡曲や歌舞伎に取り入れられている鬼女伝説の地なのです。『諸国俚人談』には、「黒塚は武蔵国足立郡大宮駅の森の中にあり、又奥州安達郡にもあり。しかれども東光坊悪鬼退散の地は、武蔵国足立郡を本所と言へり。即ち東光坊の開基の東光寺を言うあり。紀州那智の記録にも武蔵国足立郡の悪鬼退散とありて、奥州のことは見えず」と記して、この黒塚を鬼婆伝説の本所としています。
 黒塚は堀の内村の古名で、旧大宮市堀の内町3丁目目の黒塚山大黒院(真言宗智山派)にその名残りをとどめています。同寺では毎年2月の節分会には不動明王尊の土壇を設け、紫燈護摩を修して追儺招福の豆撒きを盛大に行います。その際「福は内」を三祷しても「鬼は外」とは唱えないことでも知られています。
 この伝説は、現在旧大宮市宮町にある大宮山東光寺(曹洞宗)の創建にまつわる阿闍梨宥慶の話として伝えられています。もっとも東光寺はかつて堀の内にあったとも伝えています。『新編武蔵風土記稿』に東光寺の記事として次のように記してあります。

「東光寺 大宮山と号す。曹洞宗新染谷村常泉寺末なり、寺記及鐘銘に拠るに、当時は昔紀伊国熊野那智山光明房の住侶、宥慶阿闍梨関東下向の時、当国足立原に宿りて黒塚の悪鬼を呪伏し、その側に坊舎を立て東光坊と号す。是れ熊野の光明東国に輝く、と云ふ意を表せしとなり。今按に此説いと浮きたる事なり。想ふに此所に黒塚と云う塚ある故に、彼の平兼盛が陸奥の安達原の鬼を詠せし歌に附会せしならん。さて当時は天台宗の由記録に見ゆ、真言宗なりとも云ふ。誰か是なりや、其の後、曹洞宗の僧、梁室和尚中興して一寺とし、東光寺と号す。この僧長享元年(1487)正月28日に化す。本尊薬師客殿に安置せり」とあります。このように福島県の安達太郎山の鬼女伝説と酷似しています。「此説いと浮たる事なり」と書いて伝説の黒塚の付会の説としています。
 

見沼と吉野原合戦   
 
旧大宮市吉野町にかって行人塚があって、吉野原合戦で戦死した上杉方将兵の首を葬ったところといわれていました。吉野原合戦について「岩槻巷談」には、管領上杉憲房が江戸城に居城していたところ、岩槻城主太田資家が、北条氏康に内通して、品川表で北条軍とともに憲房を破ったとしていますが、記述内容の年代・人物・事件について誤記があって歴史的信憑性については甚だ疑問であります。しかしながら、吉野原で両軍の合戦が行われたというのは、地形的にみて極めて妥当性のあるものと思われます。「岩槻巷談」にあるように河越と岩槻の間に見沼があり、船橋は見沼の幅が最も狭い地点でありますから、吉野原で上杉・太田両軍が合戦をした事は十分考えられます。
 そこで、煩を厭わず「岩槻巷談」の「吉野原合戦之事」の記事を掲載いたします。
 
「吉野原合戦之事
 
時に享禄二年(1529)上杉憲房は太田を討て先年の(うらみ)(すす)、江戸の城を取り返さんと三千余騎を引率して河越の城を打立て平潟川(、江戸の城を取り返さんと三千余騎を引率して河越の城を打立て平潟川(ひらかたがわ)を押渡り、上尾宿の下なる吉野原迄出張す。
 岩槻城中にて資高此由を聞きて上杉家の鉾先恐るに足らず、此方より逆寄せして半途に出で不意を打、若し利有らずは其時は引返して籠城し小田原へ加勢せんと、合戦の勝敗は兵の多少に寄るべからず、小敵と見て侮(
あなど)(たのも)を先陣として伊達(だて)与兵衛を軍奉行とし、野口多門、竹内伊織、吉田源之進を足軽大将とし、関根渡辺を岩槻の留守居と定め、逞兵(ていへい)一千二百騎をすぐって、同年四月十日丸に桔梗(ききょう)の紋所の旗を押立原市縄手(なわて)押行て敵陣の様子を見渡せば、湖水を前に当て竹に雀の紋所の旗を川風に翻(ひるがえ)し吉野原の広場に勢々として控居たり。此時は時雨降続き湖水の水増したり、白波岸をみなぎりて底の浅深を知らず。
 暫らく猶予して敵味方白眼逢てありければ、斎藤頼母は是を見て大将の本陣に馳参り、某愚按を廻らし候程に川を隔たる合戦は必ず渡す方勝利を得たる者と承り候、是先する時は人を制するの道理直に味方より渡して勝負を決し候わん方如何やと申ければ、大将の資高汝か申所尤なり、先陣の儀は汝に任すと有ければ、頼母は直様川端に打のぞみ、昔より宇治川利根川など名を得た大河に戦ふ事度々なれども河を渡さす引たる例や有ん、今日の沼渡しは斎藤頼母なるぞ、我に続よ々々と言捨て湖水へざんぶと乗り込んで浪を開ひて押渡る。

 大将資高是を見て頼母を打すな続けや者共と真先に進んで乗込れければ、何かは以て猶予すべき、我劣らじと打入て岸へ移るや否や猛虎の群羊に入る如く,鎗先を揃へて突て入る。斎藤頼母は敵三騎伏て首を掻き落し家来へ渡し後陣へ送り猶能敵もかなと駈廻る、大和守も武勇父祖に劣らぬ大将なれば自身鎗を取て敵中へ突て入能き武者一騎討取て勇進んで相戦ふ。諸軍是に励されて火出る計りに戦ひける。上杉勢は此勢に馳立られ一二の備迄立足も無く,大将憲房の本陣へなだれかゝるに依て旗の手乱れて敗軍の色顕れけり。
 是を見て伊達与兵衛、野口多門時分は能きぞと塩合はづさず踏破れと士卒を下知して横手より馳入りて憲房の旗本へ会釈もなく突てかゝる。此勢ひに辟易
(へきえき)して四五町計崩れ行て、難波田弾正忠、一ノ谷大和守後陣の荒手を以て馴合しかば伊達野口も今朝よりの廻り合とて戦ひ労れて引退く、上杉方も疲れければ両陣戦ひ疲れて引退きて息をつき討死を(かぞ)ふるに、岩槻勢の内には舎人(とねり)八、深井九八郎、石川政之進、野本与市を初めとして四十余討れたり。 上杉方には死人二百余人と聞へける。是に寄りて比所に怺兼(こしらえかね)川越の城へぞ退きけり。資高大に勝利を得て手合よしと歓勇んで岩槻城へ帰陣しけり。 

……(中略)……此吉野原合戦の場は湖水の入口は後には干上りて深田と成り、今原市宿の下に船橋と云縄手あり是其地なり。古しへは船橋を掛て往来し船橋に横手に幅拾里余竪五十里余の水海なり。見沼と号して坂東一の湖水也。舟橋は此湖水の入口也」と記されています。

「岩槻巷談」は、江戸時代の宝暦年中(18世紀中頃)書かれたもので前述したように疑問が多いのです。まず吉野原合戦の時期ですが、「岩槻巷談」では享禄2年(1529)となっていますが、少くとも大永5年(1525)以後には上杉と岩槻太田は同盟関係にあるので、以前のことと考えられます。また岩槻城主は太田資高ではなく太田資頼です。しかし、先述したように吉野原で合戦が行われたというのは妥当性を有するといえましょう。

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見沼の歴史その1

−見沼溜井以前の時代(1)

  見沼は大昔、武蔵第一の大瀦(ぬま)で、三沼・御沼・箕沼とも書いています。また一名見沼溜井とも呼んでいました。新田開発以前は、上尾・大宮・浦和の旧三市に跨り、沼の形があたかも大鹿の角が聳(そばだつ)ような形に似て、東の角は大宮市風渡野、西のそれは上尾市原市のあたりまで延びていました。沼の形を頭の部分と東西の角の三水面に分けることができることから三沼と名づけられたといいます。  沼の周囲はフルマラソンのコースにも匹敵する42キロほどあります。面積は12平方キロで、諏訪湖(14キロ)よりやや小さく、山中湖(6平方キロ)の2倍の大きさです。

  この見沼がいつどのようにして移り変わり、今の姿になったのでしょうか。その歴史を繙(ひもと)いてみませんか。その移り変わりを見沼溜井以前の時代、見沼溜井の時代、見沼新田開発の時代、新しい見沼の時代とに分けて、その姿を復原してみました。できるだけ各時代の変化と特質がはっきり摑栩鹿font>(つか)むことがきるように配慮いたしたつもりです。 

 見沼の成り立ち 

  見沼を囲む大宮台地の辺(ほとり)にある縄文式時代前期(今から50006000年前)の遺蹟、中川貝塚(旧大宮市中川)・山崎貝塚(旧浦和市三室)からは、マガキ・ハマグリ・オオノガイ・サルボウ・ハイガイ・アカニシ(以上鹹水産)とヤマトシジミ(淡水産)などが採取されています。ここはもと奥東京湾が入り込んでいたことが貝塚の存在で立証されたのです。貝塚は人々が生活した跡ですから、食糧とした貝殻のほかに土器や石器・骨角器などが出土して、その生活ぶりを偲ぶことができます。  縄文時代の終りごろには海退が進み、海退後には古い荒川が延びてくるに従い出口が塞がれて、大きな沼沢地(しょうたくち)が出現しました。ここには塩水ではなく明らかに真水の水沼(みぬま)が形づくられたのです。  縄文時代がおわり弥生時代になると、見沼辺(ほとり)の県立博物館敷地内の遺跡からは、煮炊きき用の台付(かめ)が発掘されています。この土器は米を蒸すための甑(こしき)に使用されたものです。すでに稲作が行われた証拠になるのです。県では県立博物館敷地内の弥生時代の竪穴住居跡と方形周溝墓および出土遺物を県指定史跡にして保護をはかっています。
  ところで、こうした見沼の変化を如実に示した遺跡として寿能泥炭層遺跡(旧大宮市寿能町)があります。この遺跡は昭和54年(1956)から昭和56年にかけて発掘調査されたのですが、縄文時代の全時期・弥生時代後期・古墳時代・平安時代までの各時期にわたる複合遺跡とされたのです。海進によって海中に没した縄文時代前期を除いて、除々に泥炭層が堆積した低湿地に変わり、さらに江戸時代前期の溜井造成期までの時代の移り変わりとともに、自然環境の変化に適応してきた見沼周辺の人々の暮しぶりを垣間見るできる貴重な遺跡として注目されたのです。遺構は木道と杭列ですが、特徴として木製品の出土があげられます。漆器100点余と杭など合わせると1000点余になります。しかし、隣接する台地上の近くには大規模な集落跡はなく、小支谷を西に1キロの距離にある氷川神社社叢に点在する遺跡群と関連して、ウォーターフロント基地の役割をもつ遺跡と主張する人もあります。これに対し、疑問を唱える人もあります。いづれにせよ今後の研究が待たれます。    

見沼は氷川の御沼

一般に「氷川」のヒは氷(こおり)の古語で、カワは「泉」を表現したものといわれてい ます。氷川神社に伝わる氷川本紀に「氷川とは古へ水沼あり、下流は隅田川に接したる大いなる流れにして、其大さ三里余、広さ五六丁其後新田に開きしが、今当社御手洗は古昔水沼の残存せるものなり、池中に蓴菜(じゅんさい)を繁生す。三冬の比(ころ)、今も御手洗に竪氷を結ぶ、故に氷と云ひしを、今は氷川と云ふなり」と記しています。 

  氷川神社を称する神社は、埼玉県・東京都・神奈川県に約250社あります。これらの多くは川の上流か沼の水源の傍らにあります。見沼周辺にある旧大宮市高鼻の氷川神社・旧浦和市三室の氷川女体神社・旧大宮市中川の中山神社は、それぞれ男体宮・女体宮・王子宮と称していました。この三社にはそれぞれ縁起書や古記によって創建年代を定めていますが、実際とは異なる場合があるともいわれています。信濃国諏訪湖畔の諏訪大社は、上社下社に分かれていますが、もとは一社で大社名は両社の総社であるといわれています。氷川三社も恐らくもとはこのような形態ではなかったといわれています。これは三社が深い関係をもっていたことを示しており、かつては一社であったことを物語るものと考えられます。その遺制として、氷川女体神社の磐舟祭(いわふねまつり)と氷川神社の橋上祭(きょうじょうさい)があります。 

  御船祭  

  甲子夜話(こうしやわ)の文政6年(1823)2月の記事に、「御宮の後の山には杉、榊多く(はえ)て、あ たかも三輪山(みわやま)によく似たり 前の石段を下りて鳥居あり、此より並木を直に東に出て四本竹と言う所、これ祭場なり、打見わたしたる所平田なり。昔は大沼の御手洗ひにて九月十四日の例祭には神輿を舟にて出し奉る。出御の時は必ず西風吹き還幸には東風なり、舟師棹を取るを待たずして風に任かせて池中に至り、祭式終了後、また風に随いて還着す。また其祭礼の時刻ばかり往古より雨降ることなし、霖雨連日の時と言へども、九月十四日午未(うまひつじ)の刻と言へば必ず雨止むが故に此神事に雨具の用意あらずとぞ」と御船祭を情緒豊かに祭の情景を霊験あらたかに描いています。 

  伝統的な御船祭は享保12年(1727)の見沼干拓により執行不能となり、代つて「磐船祭」が今は隔年9月8日に神輿を船に乗せ、見沼に見立てた御手洗瀬3町ほど沖へ進み祭祀を執り行っています。 

 万葉集に「天雲(あまくも)に磐船浮べて」と詠まれているように、神話に擬(なぞら)えて平安を言祝(ことほ)ぎ奉ったものと思われます。氷川女体神社には御船祭に用いられた神輿(みこし)をはじめ神具の鉾(ほこ)、剣(つるぎ)、瓶子(へいし)など、南北朝から室町時代に制作された伝世品があります。これらは歴史的、美術的にすぐれた貴重なものとして、県指定有形文化財となっています。このほか、四本竹は御船祭の御旅所と伝える祭場遺跡で、見沼の下山口新田にありました。近年の発掘調査で集中して突刺(つきさ)った多数の祭竹が発見され、同時に古銭、磁器片、土錘などが出土しています。 

  御船祭・磐船祭と祭祀の仕法は変化しても、氷川女体神社では最も重要な祭祀として時代を超えて今日まで継承されてきたのです。

橋上祭 
    
 氷川神社の御船祭の実態は定かではありません。見沼干拓後は神幸祭として、江戸時代は
  旧暦の6月15日、明治維新後は8月2日に執行されてきました。同社でも最も大事な祭礼としております。 

  当日は井垣(大宮・大成・土呂・本郷・北袋・天沼・加茂宮)と神領(旧与野市上落合・旧浦和市新開)の氏子が寅の刻(午前4時)に参集し奉仕します。神幸に先き立ち笹付竹で池水を橋上に撒き散らします。小麦殻で敷き詰めた橋上に神輿・神宝・神具が安置されると神酒神餅が奉納され、厳(おごそ)かに神事が執行されます。祭祀が終ると、行列を組んで池の周りを一巡します。 

 


 
著者プロフィール  秋葉 一男(あきば・かずお) 

  1927年埼玉県白岡町に生まれる。國學院大學文学部史学科卒業。埼玉県立博物館部長、  同民俗文化センター所長を経て同文書館長で退職。現在、 幸手市史編集委員長、埼玉県警察 、 学校講師
著書「埼玉ふるさと散歩・大宮市」(さきたま出版会)、「埼玉県地名」(編著、平凡社)、「吉宗の時 代と埼玉」(さきたま出版社)
他。

 

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見沼の伝説 その2
   見沼の不思議な話

 


国昌寺
「開かずの門」


 

今回は、旧浦和市大字大崎にある国昌寺の山門にまつわるお話しです。国昌寺は曹洞宗の古刹(こさつ)で、山門の欄干には左甚五郎が彫ったとされる龍の彫刻があります。扉は「開かずの門」といわれ、ある言い伝えに基づきいかなることがあっても開くことがないとされています。その言い伝えとは……

 江戸時代、見沼田圃がかんがい用のため池だった頃、見沼は大雨でよく氾濫しました。これは、見沼の主である龍が、大雨が降ると水面をのたうち回り大暴れしたためで、ほとほと困った村人たちは、何か良い策はないかと考えあぐねていました。

 そんなある時、日光東照宮の造営が終わった左甚五郎がこの辺りを通りかかったので、村人たちは、龍を彫って魂を封じ込めてもらうようお願いをしました。

 甚五郎は、村人たちの依頼を快く引き受け、眠り猫を彫ったそのノミで、今度は力強い龍を短時間のうちに彫り進めました。そして彫り終わると、今にも飛び出しそうな龍の頭の部分に、太い釘を打ち込んで封じ込め、欄干にかけたのでした。

 それ以来、大雨が降っても、見沼の龍が暴れることはなくなりました。

 ところが、程なくして国昌寺の檀家が亡くなり、棺を担いで龍の彫り物のある山門をくぐったところ、棺が急に軽くなりました。不審に思って棺の蓋を開けてみると、中に収まっていた仏様がもぬけの殻になってるではありませんか。

 村人たちは、彫り物に封じ込められた龍が、仏様を食べてしまったに違いないとうわさし、恐れたため、それ以来山門は開かれなくなったということです。

(事務局から)

※ 以上は、言い伝えを元に、創作も交えて物語風に脚色したものです。

※ 山門に彫られた龍が暴れるのでくぎを打ったという話や、龍が作物を荒らしたためと いった話など、今回の内容とは違う言い伝えもあります。

※ 実際、国昌寺では、正月三箇日と昨年から龍神まつりの日(今年は5/3)は、参拝 者のために山門の扉を開けているそうです。その他の日は一切開けないそうです。

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見沼の伝説 その1
見沼の不思議な話
 


 河童の妙薬
(さいたま市大宮)

 大宮が中山道の宿駅だったころ、脇本陣の栗友の女中がある夜厠(かわや)に入ると、物(ものかげ)から手をのばしていたずらをしようとするものがある。
 
その次の夜、折からこの宿にとまった若侍がそのことを聞き、短刀を懐(ふところ)にして厠にはいり、矢庭にその手をとらえてこれを切りはなした。行燈(あんどん)の下でよくみる と、それはネバネバした黒い蛙(かえる)のようなをした毛のモジャモジャしている手のようなものであった。
 
その翌日、栗友の奥庭の燈籠(とうろう)に火がはいるころになると、品のよい老女があらわれて、
  「実は姿をかえていますが、わたしは見沼のカッパでございます。おはずかしいことながら、バカバカしいいたずらをしたばかりに、昨夜こちらでだいじな片腕を切られてしまいました。お返しいただくわけにはまいりませんか」
 
という。
この時、栗友の頭をかすめたのは、年をとったカッパは昔から恩をきるという話だった。
「困るとあればあげないこともないが、切られたものは役に立ちますまいが」
と栗友が静かな口調で老女の顔をのぞきこむと、
 
「わたしどもの世界には、ふしぎな妙薬がありますので、つぐくらいわけはありません」
「ではそのつぎ薬の秘法を伝授してくれれば返して進ぜましょう」
ということになって、その秘法を伝授したのが、栗友相伝の「カッパの膏薬(こうやく)」だという。
 

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