華固ちゃんと未来くんは、和歌山県海南市(わかやまけんかいなんし)を中心とする井沢弥惣兵衛さんの業績や故郷を訪ねてまわり、お墓まいりもすませて無事に帰ってきました。
二人にとっては初めての大旅行で大満足でしたが、後の整理が大仕事となりました。特に野上八幡宮(のがみはちまんぐう)に弥惣兵衛さんが奉納(ほうのう)した水鉢(みずばち)のこと、晩年の寄進状(きしんじょう)のこと、歴史民俗資料館で見た測量器具のことは、なかなかうまくはまとめられませんでした。
二人が疲れ切ってノートも鉛筆も放り出したくなったときです。華固ちゃんは、ふとお墓でのことを思い出しました。
『あれはまぼろし? 幽霊か?』
畑の中の井沢家の墓地に立って、二人で手を合わせて拝んでいた時です。急に霧(きり)が立ちこめてきて、白髪(はくはつ)の老人が現われ、「よく来たな。わしが井沢弥惣兵衛じゃ。ゆっくり見学していきなさいよ」と言ったあと、関東で改めて会う約束をし、指切りまでしたのでした。それは予想もしなかったことで、二人はうれしくてたまりませんでした。
でも、考えてみればおかしなことです。弥惣兵衛さんは昔の人です。何百年も前に死んでいる人です。その人と会って指切りをするなんて変です。
あれはまぼろしだったのだ! 私たちは何かに化かされていたんだわ!
華固ちゃんはそれに気づくと、ぞくぞくっと寒気(さむけ)がしました。
「ねえ! 未来くん! 弥惣兵衛さんと会ったときのこと、おかしいと思わない?」
「別に……ちっともおかしくはないけど」
「だって、弥惣兵衛さんは死んだ人よ。過去の人よ」
「そうだよ。当たり前だよ」
「その人と指切りするなんて、おかしいんじゃない?」
「そうかな?」
「おかしいわよ。ああいうのを『まぼろし』と言うんだわ」
「華固ちゃんは臆病(おくびょう)だなあ。まぼろしだっていいじゃん」
「いいことないわ。あれは弥惣兵衛さんの幽霊よ!」
「え? 幽霊! おどかすなよ!」
「わたし、怖いわ!」
華固ちゃんは、急に庭に飛び降りて駆けだしました。
「おい、待ってくれえ!」
未来くんもあわてて後を追いました。二人はお堂の前にいた夢幻坊に抱きつきました。
「どうしたのだ? 二人とも……。何があったんだ?」
「紀州(きしゅう)のお墓で、弥惣兵衛さんに会ったことを思い出しちゃったの」
「ぼくたち、関東でゆっくり会おうと言われて、指切りまでしちゃったんです」
「ほほう、それでどうした?」
「華固ちゃんが今頃になって、あれはまぼろしだ、幽霊だって言い出して……」
「そうよね。お父さんの術じゃないわね。あれはまぼろしでしょ?幽霊でしょ?」
華固ちゃんがおどおどしながら言いました。お父さんはにこにこしながら言いました。
「うむ。お父さんの術ではないが、よかったではないか。めったにないことだ。弥惣兵衛さんが出てくださったなんて、これからいいこと、いっぱいあるぞ」
「え?どうして?」
「弥惣兵衛さんは天狗(てんぐ)の申し子なんだよ。お前たち二人を、将来、きっと人の為(ため)に役立つ人間になると見通したから、指切りまでしてくれたんだ。怖がらなくてもいいんだよ」
夢幻坊のその言葉に、二人はほっとして、また、まとめの仕事に戻りました。
『できあがった立派な銅像』
十月二十三日、日曜日の朝です。待ちに待った井沢弥惣兵衛翁(おう)の銅像除幕式の日をむかえました。夢幻坊は招待客として出席、華固ちゃんは式典の終わった頃、お母さんと未来くんと三人で見に行くことにしました。
「いいお天気だから、ピクニックの気分で出かけましょう。おにぎりを作るから華固ちゃんも手伝ってね」
「はあい。未来くんの分は私が作るわ」
「じゃあ、お母さんは、自分の分とお父さんのを作るわ」
こんな調子で、楽しく準備をととのえました。
東縁(ひがしべり)用水の土手を歩いていくと、見沼自然公園が見えてきました。広場には白い大きなテントが三つも張られていて、秋の日差しをまぶしく照り返していました。
近づいてみると、もう式典は終わっていて、係の人々が、マイクを運んだり掲示物をはがしたり、忙しそうに後片付けをしていました。テントの向こうに、新しい大きな銅像が目にはいりました。
「あ、あれだ!」
未来くんが駆け出しました。華固ちゃんも走り出しました。
それは、真新しい青みどりに光る台座の上に、しっかりと足を据えて立つ、お侍姿の全身像でした。羽織袴(はおりはかま)に大小の刀を差し、右手の扇子を少し前に出し、じっと遠くを見つめるちょんまげ姿。彫りの深いその顔は、六十を越えた老人のようですが、厳
(きび)しさの中にやさしさも感じられます。
「これが井沢弥惣兵衛さんなんだわ」
「何だか、見たことがある顔だね」
そう言いながらも、二人は予想をはるかに越えた立派な姿に見とれていました。
「いい銅像だわ。生き生きとしていて、上品で、威厳(いげん)があって……」
お母さんが、感極まったような声で見上げました。すると、いつの間にか傍に来ていた夢幻坊が、太い声で言いました。
「この姿で命令されたら、『ははッ、かしこまってござりまする!』と、いっぺんでひれ伏しちゃうな。どうだ? あ、は、は、は」
この笑いで、みんなの緊張(きんちょう)がとけました。それぞれに、彫り込まれた文字を読んだり、場所を変えて眺めたりして、新しい銅像の完成を祝いました。
夢幻坊の話によると、式典には、銅像を作った彫刻家をはじめ、県知事や井沢家の人たち・野上八幡の宮司(ぐうじ)さんまで来ていて、厳粛(げんしゅく)でとてもよかったそうです。
『弥惣兵衛さん、現われる』
おにぎり弁当を楽しく食べて、夢幻坊とお母さんは先に帰っていきました。華固ちゃんと未来くんは、池のほとりのベンチに腰掛けて、人馴
(ひとなれ)れした水鳥たちを眺めていました。
その時です。二十メートルほど先の水面に映っていた幾つかの白い雲が、波に揺(ゆ)れて砕(くだ)けたかと思うと、水の中から陽炎(かげろう)のようにゆらゆらと現われ出たものがあります。二人は驚いて立ち上がり、逃げようとしました。しかし、はっきりと見えてきたのは白髪の老人です。紀州で会って指切りをしたあのお侍さん、井沢弥惣兵衛さんだったのです。
「怖がることはないぞ。約束を果たそうと、今朝から待っておったのじゃ」
「じゃあ、除幕式にも出席なさったのですか?」
「いや、陰でそうっと見ていただけじゃよ。式は厳粛、いろいろな話が聞けたし、銅像は立派だし、すべてよかった。大勢の人が来てくれて、わしはうれしかったぞ」
「私たちもうれしいです」
「ぼくは、急に関東へ行くことになったと聞いて、どんな用があるのか、不思議でした」
「そうか。わしは、関東で、見沼のほかにいろいろな仕事をした。始めに『飯沼』(いいぬま)という沼を干拓したが、見沼よりずっと広い沼だ。見沼の後の干拓では、『小針沼
(こばりぬま)・小林沼(こばやしぬま)・屈巣沼(くすぬま)・芝山沼(しばやまぬま)・鴻沼(こうぬま)等々』いくつもあるんじゃ。調べてみなさい。それに用水路も幾つも掘らせた。見沼代用水路の分流じゃ。知っているのが幾つあるかな?」
「ひとつも知らないです」
「そうか。この近くでは、すぐそこから天久保用水(あまくぼようすい)を取っているぞ。その先では川口の赤堀用水(あかほりようすい)。西縁
(にしべり)用水路からは砂分水(すなぶんすい)・高沼用水(
こうぬまようすい)等、大事な仕事をしてくれているんじゃ。用水についても調べてみたらよかろう」
「はい。調べることにします」
「ほかに、関東での仕事としては、千葉県や神奈川県の方でもやったな。『江戸川』『多摩川』を始めとする川の改修工事もずいぶんとやっている。関東は広い平野なので、やりがいのあるところじゃ。今でも、一人でしばしば見に来ておるのじゃ」
「よくわかりました。ずいぶん忙しいんですね」
『たいへんだった工事が五つ』
「うむ。見沼の仕事でな。わしや、部下の者が
『大変だったな』 と思い出す場所が五つある。
なぜ、どのように、大変だったのか、それも調べてみなさい」
こう言って弥惣兵衛さんは、大きな帳面を広げました。そこには一から五までの場所と工事名が書いてあったので、二人はあわてて手帳を出して写し取りました。
一、下中条村(しもちゅうじょうむら)の取水口(しゅすいこう)工事
二、八間堰(はっけんせき)・十六間堰(じゅうろっけんせき)工事
三、柴山(しばやま)の伏越(ふせこ)し工事
四、瓦葺(かわらぶき)の掛渡井(かけとい)工事
五、八丁堤(はっちょうづつみ)北側の見沼通船堀閘門式運河(つうせんぼりこうもんしきうんが)工事
二人はこれを写しながら、『これからが大変だぞ』と、強く、強く、思ったのでした。
「きょうはこれくらいにして、また、会おうかのう。この次は、見沼代用水をさかのぼって利根川まで、空から眺(なが)めてみようかのう」
「もう一つだけ教えてください」
「いいとも、いいとも」
「見沼の仕事で、弥惣兵衛さんが一番困ったことは何ですか?」
「うーん。それはなあ、『見沼の竜神さま』が、なかなか干拓を許してくれなかったことじゃなあ。あれには本当に困った。わしら人間が勝手に自然を変えようとしたんじゃから気の毒なことじゃったが、大勢の人々の為だから許してほしいとお願いしたわけじゃ」
「今でも悪いと思っているのですか?」
「ま、見沼の竜のことだけに限ればな。でも、どれだけ多くの人々に役立ったかを考えれば、いい仕事をさせてもらったと満足しておるぞ」
弥惣兵衛さんはそう言って腕を組み、懐かしげに池の遠くを見つめました。それからしばらくしてさっと立ち上がりました。
「そうだ。やはり、きょうはこのぐらいにしよう。いいかな? この池の奧に竜神が来ているような気がする。行ってみるとしよう」
そう言い残して、ずんずんと水の中に入っていき、煙のように消えてしまいました。
(おわり)
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