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昔のくらし(その8)
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生産暦
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農事歴(のうじれき)ともいいます。
1年の季節の移り変わりが、人間の生産活動に与える影響(えいきょう)はとても大きいものです。ことに、四季のはっきりした日本では、米作りが生産活動の中心だったこともあり、とてもこまかく季節変化を暦(こよみ)の知識に生かしてきました。
たとえば、コブシの花を「種播き桜(たねまきざくら)」とか「田打(たう)ち桜」などと呼んで米作りを始める目印(めじるし)にする風習があります。これはある樹木の開花を農作業の目安(めやす)にしたものです。 また、山肌(やまはだ)に残る雪のかたちによって、種まきや田植えの時期を知る習慣があります。これは山の雪の融(と)け具合(ぐあい)という気象上の変化を農作業の目安にしたものです。
このように、各地域で微妙(びみょう)に異なる風土(ふうど)上の特色が、その土地なりに生きた民間知識としての暦を作り上げてきました。
中国から暦が伝えられる(飛鳥(あすか)時代に太陰太陽暦(たいいんたいようれき)=旧暦(きゅうれき)が伝えられた)まで、米作りを中心とした暦が工夫されていたようです。 そして、中国から暦が伝えられた後も、米作りとともに、それぞれの地域で語り継がれ、生き続けてきた自然と結び付いた暦なのです。
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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昔の家(その6)
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土壁
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ふつう日本で壁というと、土でつくられた真壁(しんかべ)をいいます。真壁とは、壁が柱の面より引っ込んでいて、柱が外面から見える一重(ひとえ)の壁のことです。 これは、柱の湿気(しっけ)を適度に保ち、腐(くさ)るのを防ぐため、日本の風土にあっていました。
また、真壁に対し、大壁(おおかべ)があります。大壁は、柱の両面に壁を取りつけた空中(くうちゅう)の二重壁で、外面から柱は見えません。
真壁は、下地(したじ)作り、下塗(ぬ)り、中塗り、上塗りの順で仕上げられます。 まず下地は、柱の間に貫(ぬき)を渡し、縦横に組んだ木舞竹(こまいだけ)の骨組みにシュロ縄(なわ)やフジ蔓(づる)を巻き固定します。
木舞竹とは、マダケを細かく割ったり、シノダケを二つ割りにしたものです。この下地作りの作業を木舞掻(か)きといいます。 次に下塗りは、粘土(ねんど)質の荒木田(あらきだ)という土を使い、これに数センチに刻(きざ)んだワラを混ぜて塗ります。
中塗りは、ふるいをかけて細かくした荒木田に、たたいて柔らかくしたあと1センチほどに刻んだワラと、砂を混ぜてよく練りこんだものを塗ります。これに上塗りは、漆喰(しっくい)などを塗り仕上げるのです。
旧坂東家住宅では、「うまや」「おとこべや」のある土間部分は2層(下・中塗りⅠ)、「だいどころ」「かって」の土間部分は3層(2層の上に中塗りⅡ)、床上部分は4層(3層の上に漆喰)に塗っています。
「おとこべや」の入口脇(わき)に、内部構造が分かるように土壁を塗り残してありますので、参考にしてください。
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昔のくらし(その7)
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小正月
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旧暦(きゅうれき)の1月15日を中心とする正月のことで、1月1日(元日)を中心とする大正月(おおしょうがつ)に対する呼び名です。月の満ち欠けを月日の移り変わりをはかる基準にしていた旧暦では、1年の最初の満月の日、つまり1月15日が1年の始まりだったのです。 新暦が採用されてからは1年の初日が1月1日になっています。大正月は公式的・儀式的(ぎしきてき)な行事が多いのに対して、小正月には生活とくに農作に関係の深い行事が多いのです。
けずりかけ*1、粟穂稗穂(あわぼひえぼ)*2、繭玉飾(まゆだまかざ)り*3を作って五穀(ごこく)や養蚕(ようさん)の豊作・増産を祈願(きがん)する行事。
粥占(かゆうら)をはじめとする年占(としうら)で1年の作柄(さくがら)や作柄を左右する天候を占(うらな)う行事。左義長(さぎちょう)やトンドなどと呼ばれる村境に火をたいて1年間の無病息災(むびょうそくさい)を祈る行事。秋田県男鹿(おが)半島のナマハゲに代表される「小正月の訪問者」の行事。と多彩です。また、あずき粥(がゆ)を煮(に)て食べました。
*1 けずりかけ:片柳では「作花(さくばな)」と呼び、ニワトコの木をけずって花を作り、神棚や、松飾り
のあとへさし替えて飾ったもので、その目的は稲の豊作祈願
*2 粟穂稗穂:粟や稗の増産を祈って、木で作った飾りを神棚や堆肥(たいひ)の上などへ供えたもの
*3 繭 玉:蚕(かいこ)の作る繭の生産が豊作になるように祈って、木の枝に団子や餅でできた繭玉
をさして神棚などへ供えたもの
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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昔の家(その5)
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湯殿
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湯殿とは、今でいうと風呂場(ふろば)のことです。しかし、もともと風呂とは、蒸(む)し風呂で蒸気浴(じょうきよく)をするところをいい、湯にはいる(温浴する)ところは湯殿とか湯屋(ゆや)と呼ばれ、区別されていました。 これらは仏教との結びつきが強く、宗教的意味合いのものから後に医療的(いりょうてき)なものへと移行していきました。
ちなみに日本最古の「湯殿」は延応(えんのう)元年(1239年)に建てられた東大寺(とうだいじ)の大湯屋です。13世紀後半から14世紀前半には、都市で入浴料をとるいわゆる銭湯(せんとう)があらわれ、日常的なものとして庶民(しょみん)に広がりました。その後、18世紀に入ると風呂屋と「湯殿」は混同され、現在では一般に風呂屋とか、風呂という言葉が残りました。
農家では、堆肥(たいひ)の発酵(はっこう)に効(き)くということで、風呂水の廃水(はいすい)を下肥(しもごえ)に混ぜて使用するため、風呂場を便所の近くにつくりました。
旧坂東家住宅には湯殿が2ヵ所あり、南側の大戸の脇(わき)は家族用、「おくでい」脇は上湯殿といって来客用です。
これらは桶(おけ)で外から運んだ湯を身体にかける、かかり湯とよばれる形式で、今のように浴槽(よくそう)にどっぷりつかるというものではありませんでした。上湯殿の北側には湯を運び入れる扉(とびら)がついています。
当住宅(旧坂東家住宅)が建てられた江戸時代末期には、湯殿がある農家は少なく、更(さら)に上湯殿は限られた家にしかない珍(めずら)しいものです。
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昔のくらし(その6)
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暦
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そもそも「暦」とは、何でしょうか。辞書(『大辞泉』小学館)で調べてみると、<「日(か)読み」の意>とあり、次の二通りの意味があります。
①時の流れを年・月・週・日の単位で区切り、わかりやすくした体系。
②1年の、月・日・曜日・祝祭日・干支(えと)・日の出・日の入り・月齢(げつれい)・日の吉凶(きっ
きょう)・主要行事などを日を追って記したもの。
私たちのくらしの中で、「西暦(せいれき)」、「旧暦(きゅうれき)」、「暦の上では夏」などと使うのが①で す。そして、「暦をめくる」、「暦を見る」などと使うのが②で日めくりやカレンダーなどです。
現在、世界に共通の暦として使われているのは、太陽暦(たいようれき)の一つグレゴリオ暦です。地球が太陽の周りを一回りする時間を1年と定めた暦ですから、季節の移り変わりの周期(しゅうき)に一致しますが、月の満ち欠けには一致しません。
わが国では明治5 (1872)年に採用され、その年の12月3日を明治6(1873)年1月1日としました。それ以前は、月の満ち欠けによる周期的変化を基準にした太陰暦(たいいんれき)に太陽暦の要素を取り入れて作られた太陰太陽暦が使われていました。
明治に新たに採用された暦を新暦というのに対して旧暦ともいいます。そして、昔のくらしでは、旧暦にかかわることが多いのです。
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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昔のくらし(その5)
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十五夜
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旧暦(きゅうれき)八月十五日の夜のことで、お月見(つきみ)・名月(めいげつ)・中秋(ちゅうしゅう)の名月などとも呼びます。
暦(こよみ)のなかったころの人々が、日を数える手段にしたのが月の満ち、欠けです。そして、それでできた暦が旧暦です。旧暦では毎月の十五日が満月です。正月十五日は小正月(こしょうがつ)、七月十五日はお盆(ぼん)などと節目となる行事がおこなわれる日でもあります。
十五夜には、秋まっただ中のまん丸い月をながめながら、酒宴(しゅえん)を催(もよお)したり、詩歌(うた)を詠(よ)んだりしました。
十五夜にはだんごやまんじゅうの供(そな)え物がつきものです。その他に柿(かき)、栗(くり)、さといも、さつまいもなど畑や庭の秋の収穫物もすすきなどの秋の草花とともに供えます。
そして、その晩(ばん)だけは、子供が供え物を取ってもよいのです。というより、「縁起(えんぎ)がよい」、「豊作になる」などの言い伝えが残っていることからも、取られることを期待している節があるのです。
それは、神の使いであると考えらていた子どもが、供え物をこっそりと持て行ってしまうことに、神の訪れを信じた人や時代があったからでしょう。
今年は、9月25日(火)!
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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昔の家(その4)
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屋敷林
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屋敷の周りに計画的に植えられた木々を、「屋敷林」または「屋敷森」といいます。屋敷林は、台風や季節風などの風や雪、ほこり、砂などを防ぎ、屋敷を守る役目をしています。
特に、燃えにくいカシなどを植えるのは、防火の意味があります。さらに、気温の調節、木や枝は建築資材や農工具の材料や薪に、落ち葉は堆肥に、木の実は食用にと、まさに一石何鳥もの恩恵をその屋敷でくらす人々に与えてくれます。
屋敷林の木には、一般にスギ・カシ・ケヤキといったものが多く、一つの種類を整然と植えたり、各種混ぜ合わせたり、とさまざまです。また、これらの木々の中には遠くからでも目印になるくらい、高くりっぱな木もあります。
当住宅の屋敷林の中では、西側のスダジイが一番古い木です。ほかに、ケヤキ、シラカシ、スギ、エノキ、ムクノキや、このあたりでは数の少ないアカガシ、ウラジロガシもみられます。
大戸から家に入る前に、茅葺きの屋根だけでなく、後ろに控える屋敷林や東側のいわゆる見沼斜面林をご覧ください。新緑のまぶしい季節、葉の色、大きさも刻々と変化していきます。これらは住宅と一体になり、四季の変化に応じた農家のたたずまいを感じさせてくれるのです。
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昔のくらし(その4)
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端午の節句
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端午とは、もともと月の初めの午の日のことで、毎月の五日のことでもあったようです。それがいつしか五月五日をさすようになりました。
節句については、年中行事を行う日のなかでも、特に重要とされた日をセック(節句、昔は「節供」と書きました)とか、セチ(節)・セチビ(節日)と呼んでいたことによります。
いまでは、節句というと、三月三日の桃の節句と五月五日の端午の節句をさしますが、古代中国で定められ日本に伝えられたのは五つでした。
人日(一月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)がそれで、五節句といいます。
上巳を女の節句とするのに対し、端午は男の節句で、現在、「こどもの日」という国民の祝日の一つになっています。男の子のいる家ではその子の立身出世を願って、武者人形を飾り、庭には鯉幟を立て、粽や柏餅を食べるようになったのは、江戸時代以降です。
また、「尚武の節句」や「菖蒲の節句」ともいわれていました。菖蒲蘰をする。菖蒲湯に入る。菖蒲酒を飲む。菖蒲枕や菖蒲打ちをする。そして、軒先に菖蒲や蓬をさす。など。これらは、薬草だった菖蒲で、病気や災厄を払う行事です。
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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昔の家(その3)
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囲炉裏
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旧坂東家住宅では、開館時間内、いつでも囲炉裏に火がはいっています。敷居をまたぎ一歩家の中
へ入れば、薪の燃える匂いに懐かしく思われる方もいることでしょう。その目的は、茅や屋根や材木を保護することです。また、寒い時期は暖房の役目もはたします。囲炉裏からでる煙は、防虫の効果があるのです。また、煤も屋根の茅や骨組みの竹ばかりでなく、家全体をコーティングして、もちを良くし、文化財の保存に大変役立っています。
当住宅の囲炉裏は、解体前にはありませんでしたが、解体後の発掘調査の際に見つかった囲炉裏の跡を、昔の状態に復原しました。「かって」とよばれる板の間にありますが、普通思い浮かべる囲炉裏と違い、土間側に口をあけた造りになっています。大きさは、奥行一間(約180センチメートル)、横幅半間(約90センチメートル)ほどの長方形です。
この囲炉裏の良いところは、農作業の合間に床の上に上がらなくとも、食事やお茶が飲めたり、濡れた服を乾かしたり、あたたまったりすることができるところです。また、長めの薪でもくべられますし、灰(はい)をかきだすのも楽です。
煙い燻いという体験を通し、昔の暮らしを思いつつ、囲炉裏端でお茶などいかがでしょう。
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昔のくらし(その3)
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節分
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この日には、年男が「福は内、鬼は外」と言って、炒った豆をまき、その後、自分の年の数だけ拾って食べる風習があります。また、豆を炒る火で柊の枝に鰯の頭をさして焼き、それを門口におく風習もあります。こうしておくと鬼が柊の葉に刺さって痛がり、鰯の悪臭にびっくりして逃げていくと考えられたのです。一方、豆をまくのは、豆で鬼の目玉を打ちつぶし、人に災いをもたらす鬼を追い払うためといわれています。
豆をまいて厄を払う行事は、中国の明時代の風習で、室町時代に伝わったときには、部屋の厄を払うために宮中で行う節分の豆まきでした。それが、その時代の中頃には大晦日の鬼を追い払う行事の影響を受けて変化してきたのです。その後、次第に民間に伝わっていきました。年の数の豆を食べて、その年の災いから身を守るようになったのも、前述のような豆の力を利用してのことでしょう。さらに、これが年取の行事だった名残とも思えます。節分は立春の前日です。旧暦では、翌日から年の初めとなり、季節が冬から春になるので、この日が1年の最後と考えられ、邪気を払い、幸せを願う様々な行事が行われてきたのでしょう。
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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昔の家(その2)
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式台
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式台”は、あいさつをする、会釈をするという意味の「色代(しきだい)」に通じます。
元々は、公式の来客に対して送迎のあいさつが交わされる部屋を“式台(色代)の間”といいました。式台の間は、桃山時代から江戸時代初期(西暦1600年前後)の書院造りにみられ、二条城二ノ丸御殿に2間×5間の規模のものが残っています。
その後、17世紀末から18世紀初頭(西暦1700年前後)に、あいさつを交わす場所が、玄関前の板敷き部分に替わるに従い、そこを式台と称するようになりました。
そして式台は、公式の玄関として武家屋敷だけでなく、貴族、寺院、町村役人、さらに地主、豪商層などに広まり、近世の社会的地位の象徴の一つとなりました。
坂東家は、代々名主役と見沼代用水の見回り役を勤めた家柄で、安政4年(西暦1857年)に建てられた旧坂東家住宅も、この“式台”を備えた格式の高い住宅です。当住宅の式台は、間口2間、奥行1間ほどの広さがあります。
江戸時代、坂東家へ訪問した幕府の役人は、式台に上がって、“げんかん”から左手10畳の“おく”を通り、床・違い棚・付書院を備えた“おくでい”と呼ばれる客間に通されたのでしょう。
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昔のくらし(その2)
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煤払
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正月を迎えるにあたり、1年間の煤を払い、家の内外を大掃除することで、煤掃き、煤納めなどともいいます。現在では大晦日近くにする所が多いようですが、江戸時代以降12月13日に一斉に行われていました。これは、幕府がこの日を江戸城御煤納めの日と定めて、城内で煤払いを行ったことにならい、江戸市民が煤払いをするようになったからです。
朝から大釜でお湯を沸かし、畳や家具、神様から仏様まで家の中のものを全部外に出しての大掃除です。藪から竹を2本伐ってきて束ねてほうきを作り、家中の煤を払いました。この煤払いに用いた竹を「煤男」という所もあれば、煤払いをする人を煤男という所もあります。
煤払いは、もともとは年神(正月に家々で祭る神。五穀を守るといわれる)を祭る準備のための宗教的な行事でした。
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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昔の家(その1)
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畳
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畳は、床、表、縁の3つからなり、床の上に表をつけ、さらに、縁のつくものとつかないものがあります。畳床は、刈り取って1年以上経った稲藁を使い、藁を縦横に重ね並べ、糸締めをして造られています。厚さは、ふつう2寸(約6センチ)ほどです。
畳表の代表的な生産県は、広島県、熊本県、岡山県、大分県などで、それらは昔の地名で、備後表、肥後表、備前表、備中表、豊前表、豊後表などと呼ばれています。
旧坂東住宅の土間から座敷を見
ると、まず縁のない畳が目につきます。これは琉球表といって、昔は一般的な畳でした。琉球表は、麻糸を縦とし、シチトウイ(七島藺)の茎を横として織った畳表です。シチトウイは、カヤツリグサ科の多年草で、沖縄(琉球)や鹿児島県南部などで栽培されています。
これに対し、「おくでい」の畳は、最上級とされる備後表が使われています。こちらは、トウシンソウ(灯心草)というイグサ科の多年草を使っています。また、一般に縁は1寸(約3センチ)ほどですが、当住宅の麻の縁は、7分(約2センチ)幅とやや細めです。これは、上品さを表し、茶室や料亭などでもみられます。それでは、座敷に上がって、少なくなった琉球表、上品な備後表を、ぜひ触りくらべて下さい。
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昔のくらし(その1)
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花見
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わが国では、ただ「花」といえば「桜」をさします。そして、昔から人々は、その桜の花を愛でながら、詩や歌を詠んだりうたったりしてきました。古くは、万葉集に桜を愛でる歌が多いようです。最近は、桜を愛でながらカラオケを楽しむ方もいらっしゃいます。
花見は私たちにとってとても大切な春の行楽として永い伝統をもっています。桜を愛でる花見は、平安貴族から足利将軍や豊臣秀吉らが大々的に行うようになり、庶民のあいだにもひろまりました。
このように都市の花見が早くから行楽化したのに対して、農村では三月節供や卯月八日など春の初めの特定の日に、山野に遊び、花見や花摘みをする風習があります。これを花見正月などとよび、農耕と結びついた行事として行われています。たとえば、卯月八日、つまり4月8日にウツギ、シャクナゲ、ツツジなどの花を束にし、長い竹の先につけて庭に立てるならわしがあります。
この花束が田の神を迎えるための依代となり、この行事を境に実際の農事を始めるのです。つまり、卯月八日は田の神を迎え、米作りを開始するための節目となる行事なのです。
加田屋新田では、見沼代用水東縁沿いの坂東桜を愛でることができます。
協力:旧坂東家住宅見沼くらしっく館
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