[ホーム] [上へ]

 

 見沼のほっ!とコーナーより愛を込めて 第 7 回


お庭番日記より

ー カメムシ・蜘蛛・茸 ー 

  

   南の虫が北上している。自然環境はイエローカード、それともレッドカード状態? 

                                      旧坂東家住宅見沼くらしっく館

1.ヨコズナ
   サシガメ
 
平成19年4月24日、榎にできている径5㎝ほどの窪みに、得体のしれない黒い虫が10数匹蠢いていた。
 内1匹が朱色です。ショウジョウ××とでも名付けたいほど鮮やかな朱色です。口吻が長く一瞬ゾウムシの仲間のように想いましたが、羽があり、カメムシの仲間のようです。

 調べたところヨコズナサシガメというカメムシの仲間でした。

 脱皮直後が朱色で、しばらくすると黒色になるそうです、腹部結合

板(腹部周囲の葉状の広がり)が、白色で各節に大きい黒斑をもっ

ています。この腹部結合板を相撲の化粧まわしにみたてての名でし

た。
 
  昭和54年(1979)刊の『原色日本昆虫図鑑(下)』には「……エノキ・

サクラ類・モミ・カキなどの大木の樹幹の地上1mくらいのくぼみに群


 ▲ ヨコズナサシガメ

がって越冬、4〜5月羽化…九州に分布していたが、戦後京阪神各地で発見…現在の東限は滋賀県

彦根城…戦前から…分布していたのか、戦後急速にひろがったのか不明である。」とありますが、平成

5年(1993)刊の『日本カメムシ図鑑』には「…東日本に向け、分布圏を広げつつあるように思われる…」

とあります。また、某ポケット図鑑には静岡県の例がありました。
 
 1週間ほど後、当館の北3㎞弱の七里団地の公園で、ケヤキに100匹ほどの群れを見つけた方が

います。昨年からの越冬でしょうし、確実に北上し、定着しているんですね。

.クモ
 
平成19年6月17日朝、 桜の葉の間に径2㎝ほどの黒い球体が見えた。

  すわ! またも蜂(本誌前号参照)と想いましたが、2㎜位の小さなクモの子ども200匹位が固まっていたのです。枝を揺すったところ、一斉に拡散しました。その速いこと速いこと、まさに飛び散る感じです。俗に〈蜘蛛の子を散らす様〉という言葉がありま すが、まっ たく です。

 しばらくするとまた、集まってきましたが、今度は棒状で、散る前のように丸くはなりませんでした。

  蜘蛛の子を散らす様という言葉について改めて辞書を調べてみました。明治22年(1889)刊の『言海』には、見出し語「つちぐも」の項に「蜘蛛ノ一種…巣は袋ノ如クニシテ、半ハ地ニ入ルコト三 五寸、子ヲ其内ニ育ス、袋ヲ引出セバ、子四方ニ散ズ、蜘蛛ノ子ヲ散ラスガ如シトテ、衆ノ散乱スルニ譬ヘテイフハコレナリ…」とあります。蜘蛛の子を散らす様は、ツチグモ(ジグモ)の様子だったのです。

  ▲ クモの子が散ったところ

 
▲ クモの子が再び固まった
ところ

 

 昭和10年(1935)刊の『大辞典』には、「クモノコヲチラスヨー」という見出し語はありますが、内容は語釈

だけです。例文に『十訓抄』を引いていますので、少なくとも鎌倉時代には存在した言葉であることがわ

かります。
 
  先の桜にいたクモは当然ツチグモではありません。しかし瞬間移動したように見えます。まるでテレポ

ートしたようです。ツチグモ以外のクモの子も動きは俊敏でした。

3.コガネグモ
 平成19年7月22日、母屋の雨戸の外側にクモがいた。
 大きなクモです。面白いのは蜘蛛の巣に白い帯を5本架けていることです。帯を架けたのは、たまたまだったのか、本来の生態なのか?興味深く眺めました。
 図鑑で調べると、コガネグモで「…体長♀20〜30㎜、♂5㎜。全国にもっとも普通な種で7〜8月頃成熟…」とありました。また「円網の中央にX字状のかくれおびをつけ、脚を2本ずつそろえてとまる…」ともあり、図鑑通りでした。尤も本例は、Xプラス1で5本の帯で すが、《かくれおび》って言うんですね。

▲ コガネグモ
 

 白い帯は結構目立ちます。白い帯を目立たせ獲物を誘い、かつ自身を隠す効果があるのでしょうか。面白い!

.ツルダケ
 平成18年秋、某日の朝、母屋の裏に土が割れて盛り上がっていた。
 モグラの持ち上げる砕いた土とは違います。ハテ? と思いつつ土をそっと除いていくと、なんと! キノコでした。当館ではお馴染みのツルダケです。 
 出てきた場所は、職員や来館者も歩きますので、素手では掘りにくい固い土です。笠が特別に硬いのかと思い手で触れてみると、普通のツルダケと同様、柔らかな笠でした。
 林の中のキノコは、見るからに柔らかそうな腐葉土を持ち上げて出てきますので、何の疑問も持ったことはありませんでしたが、これも キノコ・パワーと言っていいのではないでしょうか。

ツルダケに脱帽です。


 

 

 (旧坂東家住宅見沼くらしっく館 下村)
 


土が持ち上げられた状態


土を除くと、ツルダケが
現れる


固い土を割って出て来た
ツルダケ

戻る

 

 

 見沼のほっ!とコーナーより愛を込めて 第 6 回

左 と 右

ー 人の営為と自然の中の左右 ー 

  

   左と右……ややこしいのは「物自体から見た」場合と、「物に向かって見た」場合では左右が逆になることである。

   巻き方についても、進行方向に見てクロックワイズが右巻きと言っても、進行方向を逆に捉えると、巻きが逆になってしまう。右とか左であるとかを伝達しようとする時、案外錯誤が生ずるものである。
   当館(旧坂東家住宅見沼くらしっく館)に在るこんなものの左と右……結構面白い。

 

1.ハラン
  ラン科の常緑多年草です。半日陰でよく育ちます。葉を見ますと、主脈の右側が広くなっている葉と、左側が広くなっている葉があります。草本類であれ木本類であれ、葉は概ね左右同形に近く、ハランのように極端な例は少ないのではないでしょうか。同じ株から育った葉でありながら、不思議です。
 根は利尿・強壮剤となりますが、一般には葉を花材として利用することが多いようです。某流華道の師匠に聞いたところ、左右で広さの異なっている葉をどのように活け込むかは奥が深く、「華道はハランに始まりハランに終わる」と言っていました。

 ▲ ハランの葉

.カラスウリのつる
 カラスウリは、ウリ科のつる性多年草です。花は7月中旬頃から咲きますが、午後7時頃から20分くらいかけて開きます。花冠は五つに裂け、その縁は糸のように細かく裂けています。開く様は、もだかった糸が自動的にほぐれていくようでとても面白く、初めてみた人には感動を与えます。つるは伸びていく途中で巻方が左右入れ替わります。同じ方向の巻が続くと折れ曲がったとき、絡まってしまいます。自然に備わった防御方法です。電話機のコードを直線から螺旋状にしたのはグッドアイデアでしたが、よく絡まっていました。コードの途中で巻き方を逆にしたのは、植物のまきつるから学んだものです。自然ってすごい!

3.カタツムリ
 カタツムリは、デンデンムシ・デデムシなど、地方名がいくつもあります。カタツムリはカタツブリの転であると言います。ツブリは頭のことですから、不明瞭な前後のうち、片方は頭だよという意味でしょうか? 
 デデムシのデは、前後不明瞭な状態から角出せ槍だせの出ですね。カタツムリは陸産貝類です。漢字で蝸牛と表記するように殻が巻いており、左巻きになる殻と右巻きになる殻があります。まだ見つけてはいませんが、朽ち木や落ち葉の下を丹念に探せば、キセルガイの仲間がいるはずです。海には貝蛸もいますし、貝を持つ生き物って面白いですね。図のヒダリマキマイマイは殻だけです。

『ででむしの住みはてし宿やうつせ貝』            蕪村
と言ったところです。

▲ ヒダリマキマイマイ?

▲ ウスカワマイマイ?

.右勝手と左勝手
 平入りの家屋でいえば、入り口を入って右側が土間、左側が座敷になっている平面形を右勝手と言います。その逆が左勝手です。
それともう一箇所、床の間についても同じように言います。向かって左に本床、右に床脇棚があるものを右勝手、逆が左勝手と言います。右勝手は本勝手、左勝手を逆勝手とも言います。
 茶道や華道にも右勝手と左勝手があります。

旧坂東家住宅見沼くらしっく館のオクデイ

.注連縄
 当館の注連縄(しめなわ)類は、神棚・荒神・井戸神の三箇所に張ります。普通縄と言えば右撚りの 縄であり、今日機械で撚る縄・糸・ロープなども右撚りの縄です。
 ところが、神棚類へ捧げる縄は、左縒りの縄なのです。左縄とも言います。大根注連・牛蒡注連、 荒神縄すべて左縄です。神社の鳥居などに掲げる巨大な注連縄も左縒りです。神様ばかりではありません。護摩壇(ごまだん)に張る縄など、仏教で使用する縄も左縄です。右手より左手が、右大臣より左大臣が、舞台の下手より上手が、上位なのです。舞台について、多くの辞書では「観客席から見て右側を上手、左側を下手と言う」と記述していますが、上座(じょうざ)と 下座(げざ)の意がある上手と下手ですから、「舞台から 客席を見て左が上手、右が下手」という表現が正しいの ではないでしょうか。
 何によらず通常は右、左は特別なコト、だから左封じの文は果たし状。ともあれ、貴きは左なのです。 

 

  ▲ 旧坂東家住宅見沼くらしっく館の荒神縄

   (館では八丁注連といいます。)

 

.お聞きしますが ・・・
  貴女は、漫画家楳図かずおの『神の左手悪魔の右手』を読んだことがありますか?    貴君へは小さな声でお聞きします。ズボンの右と左ではどちらを太く仕立てますか?  

(旧坂東家住宅見沼くらしっく館 下村)

戻る

 

 

 見沼のほっ!とコーナーより愛を込めて 第 5 回

お庭番日記より

ー 茸・怪球体・蝋梅と鴨 ー 
 旧坂東家住宅見沼くらしっく館

琴は皆花と同じ。蕾良し・咲いて良し・散って良し。

1.茸類
 アミガサタケ  茸は秋ばかりではありません。春茸も見逃せません。3月下旬から4月中旬に敷地内の3〜4カ所にアミガサタケが生えます。可食茸ですが、採らずに毎春観賞しています。網状の笠は、とても美し く、見飽きることがありません。自然が為す見事な造形です。  写真はY氏の提供です。

 

 

 

 

▲アミガサダケ

 これ食べられますか  当館の仕事をお手伝いいただいている方にY氏がいます。Y氏は埼玉県きのこ研究会のメンバーです。館内のあちこちに様々な茸類が生えます。ある時思わず“これ食べることができますか”と質問しました。返ってきた答えは何だと思います? “一度は食べることができます” 一同笑いながら妙に納得しました。軽いブラック・ユーモアですよネ。

 ヒメツチグリ  秋になり、アシビの下に変わった茸が生えました。 Y氏の教示によれば、和名はヒメツチグリだそうです。最初は球形で、熟すと外皮が星形に割れて内から胞子を持った白い小さな袋が出てきます。中の袋より外皮の方がきれいです。ボールの中にまたボール。球形が入れ子のようになっているって、面白いと思いませんか。 Y氏によれば、この辺では珍しい茸だそうです。

 

 

 

 

▲ヒメツチグリ

2.怪球体
 ハチ?  入り口の駐車場両端にキンモクセイが植えてあります。 その枝に怪しげな球体を発見しました。
2006年12月14日のことです。前日の 夕刻に雨が降ったせいでしょうか、色調は黒でしたが、乾いたら灰色でした。堅い球体です。まるでアスファルトを固めたような堅さです。虫瘤の1種でドロバチの仲間だと思いますが、謎の球体です。24日に切り取り計測しました。

形状は概ね球形 で、短径3.4㎝、長径4.0㎝、縦4.3㎝、重量は52gでした。年が明けた2007年2月3日、甲虫研究家のS氏と共に切開しました。カッターナイフで切りはじめましたが、堅くて少しずつ削り落とす感じで開きました。中には薄皮で包まれた幼虫が2匹。透明感のあるやや淡い黄色の美しい幼虫です。これからサナギになるのでしょうが、堅い球体からどのようにして脱出するのでしょうか。素人には興味深い

謎です。

 

 

 

 

▲黒色〜淡黒色をした球体

 

 

 

 

▲半裁した球体

3.蝋梅と鵯
 ロウバイとヒヨドリ  事務室の窓の側にロウバイが植えてあります。2007年1月20日の午後、ヒヨドリが来て無心に花を食べていました。 嘴の前にある花から食べ始めますので、 まず、枝の片側の花だけなくなります。やがて枝の先端の方の花を食べ尽くしてしまい、元の方だけ花が残った枝になります。
 面白いのは、人々の反応です。植物好きは虫を食べてくれるので鳥は歓迎と言い、花好きは花を食べてしまうので鳥は嫌いと言います。鳥なら何でも好きな方は啄むところが面白いと言い、小さな鳥が好きな方はヒヨドリが来るとメジロのような小さな鳥がこないので嫌いと言います。 自然に疎い筆者には、その何れもが面白い現象です。

  (文責 下村克彦)

 

 

 

 

▲幼虫(二匹)を包む薄皮

 

 

 

 

▲淡い黄色の美しい幼虫

戻る

 

 

 

 見沼のほっ!とコーナーより愛を込めて 第 4 回

お庭番日記より

ー’05・’06年の虫たちー 
 旧坂東家住宅見沼くらしっく館

知っていれば《あたりまえ》。知らなければ《わッ!面白い》《感激》《不思議?》。 

春から夏そして秋へと、季移ろいゆくなかでの虫たちの営みを少々……

1.エゴの猫足
 エゴの猫足 2005年5月13日、エゴの花が咲き始めました。6月下旬アブラムシの巣であるエゴの猫足と呼ぶ虫こぶが三つできました。8月下旬、気がつくと茶色に変色し、萎んでいました。昆虫の専門家の話では、最近は癌の研究に益するところがあるのではないかと、病理学的な研究面で虫こぶに対する関心が高まっているとか。
2.蜂
 名不詳のハチ 泥で巣を作りますから、ドロバチ科のハチでしょう。サクラの木に巣をつくりました。2005年6月中旬より作り始め、7月中旬より羽化が始まり、8月上旬に羽化が終わりました。同じドロバチ科のトックリバチほどではありませんが、泥で見事な壷を造ります。壷を次々と接続して作り、最終の大きさは縦が12.5㎝でした。最後に穴が11個空きましたから、11匹が成虫になったのでしょうね。
 クロアナバチ 8月、庭のあちこちに径1㎝位の巣穴をあけました。 2006年は、前年より巣穴が多いようです。巣穴作りは、頭から入り砂や石を抱いてお尻から出て少し離れた所に置く、という動作の繰り返しです。巣穴が完成するとバッタを捕らえにいきます。捕らえて巣穴に戻ると、口で咥えお尻から巣穴に引き込みます。バッタに卵を産み付け、幼虫の餌とするのです。
写真は成虫のバッタ(オンブバッタ?)を捕らえ、引き込んでいるところです。
そのクロアナバチも、死ぬと死骸をアリがせっせと巣穴に運びます。食物連鎖の面白さです。

▲ ビロードハマキ

 

▲ トックリバチの    仲間の巣

▲ ジョローグモ

 

▲ クロアナバチ

3.蛾
 アオバハゴロモ 上の羽が淡緑色で、開帳10㎜位の小さなガです。両年共桑の木に群がっていました。

  ビロードハマキ  上の羽の色は、鮮やかな黒・赤・黄・橙など。飛んでいる姿を見たのはほんの2・3秒ですが、その印象は極彩色です。某図鑑には、「近畿とその近くに多く、四国・九州にもいる。」と書いてあります。

ひょっとすると、さいたま市あたりでは珍種かも。羽を広げているのは飛んでいるときだけで、止まると瞬時に羽をたたみます。モノクロ印刷のピンぼけ写真よりも、飛翔している姿をお見せしたい蛾です。

 ヤママユガ  2005年は成虫と繭を、今年は繭だけを見かけました。
 オオミズアオ  2005年8月14日に1回だけ見かけました。
4.蝶
  アゲハ・キチョウ・アオスジアゲハ・モンシロチョウなどが飛来。

5.蜘蛛
 ジョローグモ  2006年は前年より沢山巣をかけています。知ってますか?
獲物がかかるまで待機しているときは、頭を下にしてじっとして動かずにいることを。腹側の下半が朱色で、腹側から見た方が綺麗な蜘蛛です。

6.蝉
 アブラゼミ 朝、胴体を無くしたアブラゼミが地面でひっくりかえり、バタバタしているのをかなりの頻度で見ます。カラスにお腹の部分だけ食べられたのです。カラスは結構グルメですね。食物連鎖の無惨さです。

戻る

 

 

 

 見沼のほっ!とコーナーより愛を込めて 第 3 回

力石の称

  力石って知ってますか?そうです!お寺や神社の境内に転がっていたりするあの石で
す。旧坂東家住宅見沼くらしっく館を中心に、半径1km圏内の力石を紹介いたします。

1力石ってなに?
 力石は、力試しをしたり、力比べをした石です。地方によっては、所定の重さの力石を かついで境内を一周すると〈一人前として認めた〉とか、荷役の仕事では〈賃金が高かった〉とかいいます。


2旧坂東家住宅見沼くらしっ館の力石
 市指定文化財の旧坂東家住宅の前に2個立てあります。以下「 」内は力石に彫ってある文字です。大きさは縦×横×厚さで、単位は㎝、未は未計測の意です。
 ①「二十八メ」未×39×22。石工の作品ではなく、何代か前のご当主が彫ったもの

   ではないかと想像します。
 ② 文字が無く、力石かどうかは不明ですが、大きさが手頃で力石として使ったかもしれ

    ません。未×33×23。


3秋本家庚申塔前の力石
 前回紹介した庚申塔の前に2個あります。従来研究者に知られていなかった新出の力石    です。
 ③「小亀石 穐本」。
 ④「奉納四拾貫余 天保六未年七月吉日 穐本」(1881)。〈穐〉は〈秋〉の旧字です。  大きさは2点とも未計測。


4熊野神社の力石
 階段を登り切ると鳥居がありその辺りの参道の両側に埋めてあります。
 ⑤「奉納力石 安永五丙申年二月 片柳村」(1776)。52×33×23余。
 ⑥「奉納 力石四拾五メ目 寛政十戊午年 五月吉日 片柳村 氏子」(1798)。
 ⑦「奉納 五拾メ余 文政十一子年 三月吉日 片柳村 井上八之丞 守屋熊治良」   

   (1828)。75×45×15余。
 ⑧「奉納 五拾五貫目 文政十一子年三月吉日 片柳村 守屋熊治郎 井上八之丞」 

   (1828)。70×35×15余。
 ⑨「奉納 力石五拾六貫目余 文政十二己丑年 四月吉日 片柳村 坂東 助治郎」

   (1829)。75×46×15余。
 ⑩「奉納亀石 天保二辛卯年 正月吉祥日 願主石屋金治郎 持之守屋角蔵

   世話人 當村 若者中」(1831)。84×65×15余。
 ⑪「黄金石 五拾八貫余 天保二辛卯年四月吉日 片柳村

   願主穐本榮□持之」(1831)。75×46×15余。
 ⑫「根木谷」60×41×26余。
 ⑬ 65×40×15余。
 ⑭ 65×40×35。
 ⑮ 76×54×22余。 
 ⑯ 60×32×20余。
 ⑰ 59×56×32余。


5力石に付けた名称
 ⑤⑥⑨に「力石」と彫ってあるように、普通は力石といいますが、特別の名前を付けた   力石があります。⑩に亀石、②に小亀石、⑪に黄金石とあります。亀は首・両手・両足・ 両手・両足・尾の六っを甲羅の内側へ納めますから〈蔵六〉とも言います。          力石がちょうど蔵六の形に似ているので亀石と名付けたようです。それにしても小亀と  いうには大きいですよね。
市内には八雲石・雲龍石・姫石・薬師石・大王石など12の名称を見る事ができます。

歩き疲れたら、旧坂東家住宅見沼くらしっく館 へいらっしゃい。囲炉裏端でお茶を どうぞほっ!としますよ    (旧坂東家住宅見沼くらしっく館館長 下村克彦)
 

 

戻る

 

 

 

 見沼のほっ!とコーナーより愛を込めて 第 2 回

庚申塔の里

旧坂東家住宅見沼くらしっく館の周辺には、見て・聞いて・撮って・触れて・味わって
嬉しく 楽しい“こんなもの あんなこと ”が
  いっぱい。 いっぱい。 いっぱい。

“あんなもの こんなこと”の幾つかを、見沼のほっ!と する コーナー より

愛をこめて あなた へ

   旧坂東家住宅見沼くらしっく館を中心に、半径1㎞の円を描くと、その圏内に13基もの庚申塔(こうしんとう)が在ります。初発期の塔や珍しい塔など優品揃い。庚申塔の里を歩いてみませんか。

▲ ①全景

 

▲ 旧坂東家住宅見沼くらしっく館周辺庚申塔所在地

 

庚申塔の所在地と各塔の主要な要素


○ 東の端にある塔から順次紹介しましょう。
○ 「 」内は、塔に刻んである文字です。

1 上野田・天満宮近傍
  ① 明和5年(1768)。 板碑形(いたびがた)。日月。青面金剛像(しょうめんこんごう

       ぞう)。邪鬼(じゃき)。二鶏(にけい)。三猿(さんざる)
    「明和五戊子十月吉日 足立郡新染谷村 願主西信 同惣村中 大随求真言(だい

       ずいぐしんごん)(梵字真言)」。 
     総高118.5㎝。


2 片柳・秋本家
  ② 寛政10年(1798)。 笠付角柱形。日月。青面金剛像(腰に龍。下肢の虎皮に

   顔)。 二邪鬼。二鶏。三猿。
    「寛政十戊午年霜月吉日 武州足立郡 見沼領片柳村 願主 秋本直右ヱ門(外30名)

      岩槻市宿町 石工 萩原伊兵衛」。
    総高223㎝。


3 片柳・萬年寺
 
 ③ 天明7年(1787)。 笠付角柱形。日月。青面金剛像。邪鬼。二鶏。三猿。
   「天明七丁未年十一月吉日 奉造立庚申供養塔 天下泰平日月清明 武州足立郡

      片柳村講中」。
   総高87㎝。


  ④ 天保12年(1841)。 笠付角柱形。日月。青面金剛像。邪鬼。三猿。
   「天保十二辛丑四月吉日 武州足立郡見沼領 片柳村 守屋甚右エ門(外45名)」。

   総高168㎝。


4 片柳・三国コカコーラ前
 
 ⑤ 寛文1年(1661)。 板碑形。日月。三猿。二鶏。
   総高105㎝。


  ⑥ 元禄8年(1695)。 舟形光背形(ふながたこうはいがた)。青面金剛像邪鬼。二鶏。

      三猿。「奉造立庚申供養 片柳村 秋本五左エ門他一六名」
   総高133㎝。


  ⑦ 正徳1年(1711)。 笠付角柱形。日月。青面金剛像。邪鬼。二鶏。三猿。
   「庚申塔満願塔 片柳村 施主 敬白」。
   総高142㎝。


5 染谷・常泉寺参道際前
 
 ⑧ 文化7年(1810)。 角柱形。日月。青面金剛像。邪鬼。二鶏。三猿。
   「武州足立郡南部領片柳村 願主 秋本猶右エ門(外27名) 林道町 石工

      武兵ヱ」。
   総高137㎝。


6 染谷・バス停染谷新道側
  ⑨ 明和8年(1771)。 角柱形。日月。青面金剛像。邪鬼。二鶏。三猿。
   「片柳村 願主 喜右ヱ門(外26名)」。
   総高157㎝。


7 片柳・見沼くらしっく館西
 
 ⑩ 文化7年(1810)。 角柱形。日月。青面金剛像。邪鬼。二鶏。三猿。
   「武州足立郡南部領片柳村 願主 秋本猶右エ門(外27名)  林道町 石工

      武兵ヱ」。
   総高157㎝。


8 染谷・八雲神社
 
 ⑪ 明治31年(1670)。⑫元禄八年(1699)。 板碑形。日月。「奉造立庚申供養

      元禄八乙亥天一月吉祥日 染谷村 結衆」。⑬年不詳。三猿。
    

   ⑪⑫⑬の3基は祠内にあり、よく見えません。草臥(くた び)れるようでしたら

   見学はカットしても……

庚申信仰とは


  根幹は不老長生を願う信仰です。農村地帯では、五穀の豊饒や平和であることも併せて 願っています。十干と十二支を組み合わせて年・月・日をあらわしますが、庚申の日の夜

に人がぐっすりと寝込むと、躰の中にいる三尸虫(さんしちゅう)が身体から抜け出し天帝

にその人の行状を報告にいきます。天帝は其の報告を聞いて、その人の寿命を縮めます。

ですから守庚申(しゅこうしん)と言って、庚申の夜は寝ないで一晩中起きています。

庚申塔を建てる


   守庚申を7回続けると三尸虫は長絶するといわれ、⑦に「満願」とあるように、無事

守り通すと庚申塔を建てることが多かったようです。

庚申塔のこんなところを見よう


 塔の形 … 板碑形・笠付形・角柱形・舟形光背形など。
 日と月 … 丸いのは日、三日月形は月。位置は笠か塔身か。瑞雲の形。
 青面金剛 … 先ず頭髪、総髪か三つの山に分かれているか。ヘアーバンドをしている

       か。 蛇がいるか。 額に目があるか。 手は何本か。 六本あるのを六臂

             (ろっぴ)と言います。六臂の持物(じぶつ)は何か。 宝輪(ほうりん)

                ・ショケラ・弓・戟(げき)・剣・矢などを持っています。ショケラは

              三尸虫をあらわします。 腰に龍がいるか。 下半身に虎皮を纏(まと)

                っているか。
 邪 鬼 … 1匹か2匹か。顔や躰の向きとポーズ。
 二 鶏 … 雌雄の位置やポーズ。
 三 猿 … 目・口・耳を塞いでいますが、その配列順序やポーズ。
 文 字 … まずは造立年月日をみましょう。 造立の趣旨はあるか。 造立者はだれか。

           石工の名前がある塔もあります。

これだけは見逃すな


  ⑤は市内では最古の塔です。主尊が三猿だけと言う点が初発期の特徴の一つです。③は腰に龍が巻き付いており、下半身に纏った虎皮にはなんと虎の顔が着いています。敷物としての虎皮をそのまま纏っているのです。


歩き疲れたら、旧坂東家住宅見沼くらしっく館へいらっしゃい。囲炉裏端でお茶をどうぞ、ほっ!としますよ。


(旧坂東家住宅見沼くらしっく館館長 下村克彦)

▲ ③の下半身

戻る

 

 

 

 見沼のほっ!とコーナーより愛を込めて 第 1 回

加田屋の称

旧坂東家住宅見沼くらしっく館の周辺には、見て・聞いて・撮って・触れて・味わって
嬉しく 楽しい“こんなもの あんなこと ”が   いっぱい。 いっぱい。 いっぱい。

“あんなもの こんなこと”の幾つかを、見沼のほっ!と する コーナー より

愛をこめて あなた へ

   加田屋のルーツは紀州に有り


 加田屋の称は、和歌山県名草郡加田(現海南市の一部)の地名によることは、本紙4号他で、秋葉一男先生が紹介している通りですので、皆さんご存知ですよね。初代の坂東助右衛門尚重は、屋号に故郷の地名を用い加田屋としたのです。

 

   生国を離れた人は、常陸屋とか騎西屋など、出身地の国名や地名を屋号とすることが多いので、坂東家も江戸へ出て来た時に、屋号を加田屋としたのでしょう。日本橋で商いを営んだと伝えられていますが、残念ながらどのような職種であったのかは伝わっていません。しかし、商いは大成功し財を為したのでしょう、新田の開発に名乗りをあげたのです。

 

   延宝3年(1675)に、見沼のうちの入江沼を干拓し、52町6反歩の入江新田を開発しました。坂東家は沼の隣地に居を構えました。その居宅跡が現在の当館です。

元禄10年(1697)検地を受け、「村」は付いていませんが、片柳村から分離独立した一村となりました。やがて、下流域に水不足が生じ、近郷の村々と訴訟になり、享保3年(1718)沼に戻しました。

 

   享保13年(1728)村請や町人請で見沼の大規模干拓が始まり、坂東家は幕府の公許を得、再度入江新田の場所を干拓し、65町2反4畝9歩の新田を拓き、今度は加田屋新田と命名しました。

  検地は享保16年(1731)に受けています。やはり「村」は付いていませんが、一村です。小さな村で、寛政12年(1800)の戸数は4軒、人口は14人。明治9年(1875)には坂東家の1軒だけとなり、5人でした。最近は屋号を使用しなくなりましたが、坂東家の屋号は、現在も加田屋です。


 参考 秋葉一男「見沼の歴史 その1〜4」  『みぬま通信2〜5・7号』平成12・13年、見沼たんぼくらぶ刊。


   加田屋1丁目と2丁目・加田屋新田


  古い地名がどんどん消え、中央とか本町とか、東西南北を頭や末に付すなど、安直な地名が増えているように想います。そのようなご時世のなかで、1丁目・2丁目が付いているものの、加田屋が残ったのは喜ばしいことです。しかし、加田屋新田の方は宅地化が進むとあるいは消えてしまうかもしれませんね。歴史の証人である地名は文化遺産です。改名の際には、じっくり時間を掛け、性急な判断は避けたいものです。


   加田屋川と加田屋橋


  加田屋の中央を北から南へ流れているのが加田屋川です。悪水と呼ばれ、排水が主目的の川です。上は、現在の地図上では見沼区堀崎町の堀崎中央公園の東側まで辿ることができ、下は、芝川と合流しています。悪水と言っても、農業用水として使い終わった水ですから、pHは不明ながら、悪臭を放ったりはしていません。

 

   かつて、下水が完備しない頃は、都市の小河川は、家庭の雑排水が流れ込み、単なる排水路と化しました。悪臭を放ちますので、三面舗装したあげく蓋をして、都市から小河川が消えていったのです。河川は景観を構成する大事な文化遺産です。どの川も、メダカの泳ぐ清流に復活できるといいですね。


  加田屋1丁目で、加田屋川に架かる橋は加田屋橋と言います。ここにも加田屋の称が残っていました。歩き疲れたら、旧坂東家住宅見沼くらしっく館へいらっしゃい。囲炉裏端でお茶をどうぞ。ほっ!としますよ。
 この稿は、見沼田圃土地利用連絡会議が発行した『見沼ガイドマップ』を見ながら読んでいただけると判りやすいのですが……

(旧坂東家住宅見沼くらしっく館館長 下村克彦)

 

戻る

 

inserted by FC2 system